教師辞めた ブログ

15年間、教員をしました。このままでは生徒の見本になれない!!『生徒の見本になりたい』そう思ったから辞表を出しました。40過ぎた今から、自分で人生を掴むブログ。イラスト・漫画のお仕事募集してます。メールで相談してください。p-kamiyo@hotmail.co.jp

「この先どうなるんだろう。」って思うことは、悪くないと思う。

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毎日、鳶の仕事をしています。

 

40過ぎてからの体力仕事。

 

きっと教員時代の同僚が、僕が今、鳶の仕事をしていると知ったら、相当驚くだろう。

 

文化系キャラだったからね、ぼく。

(その割に運動部をガンガンあてがわれたけど)

 

人生経験のためにやっています。

 

いつまでやるのかな。

 

この先どうなるんだろう。

 

 

 

「この先どうなるんだろう。」

 

 

 

そんなふうに思うことって、多分とても大切だったんだと思います。

なんか今は毎朝目が覚めると、「この先どうなるんだろう」って思います。

 

悲観的には思わないけどね。

 

でもこれからどうやって生きていくのか。

それは気になる、っていうか考える。

 

もう鳶も半年になる。

早いなぁ、ホント。

その前は完全無職の3ヶ月だった。

教員辞めてから、もう10ヶ月だ。

早い。

鳶はいつかやめるでしょう。

 

そのときに自分の生きる方向がどうなっているのか。

 

悲観的ではないです。

でも、気になります。

焦りもあります。

 

どういう方向で生きるのか。

そういうものを掴めるのか。

 

 

教師辞めて10ヶ月。

早いなぁ。

もうすぐ1年。

 

 

 

「この先どうなるんだろう。」

 

 

 

ホントはできるだけ若いうちに、その疑問をもつといいんだろうと思います。

 

でも、僕を含め多くの場合、そんな疑問を持つ機会ってなかなか無いと思う。

 

 

多くの場合は、小学校、中学校、高校、大学などと進学していく。

 

その際には、将来を考えるよう課題とか与えられるような気もするけど。

でもそんなものでは・・・・。

 

 

「この先どうなるんだろう。」

 

 

っていう問いには届かないです。

 

 

学校とか会社とか、いわゆる「社会のレール」に乗っていると安心する。

だから

 

「この先どうなるんだろう。」

 

ってホントに考える機会って、社会のレールから少し離れたときにおとずれるんだと思います。

 

いまの僕は、その状態に近いのかな、と思う。

 

 

 

サラリーマン教師というレールにずっと乗っていました。

教師になる以前も、何も考えなくても、何もしなくても、物事が展開していった。

 

ずっと「教師辞めたいな」って思ってた。

けど、怖くてズルズルと続けた。

レールを降りるのが怖かった。

 

今は。

 

「この先どうなるんだろう。」

 

って、初めて思えている気がする。

 

本当はもっと若い時分にぶつかっておく問いだったとも思う。

 

 

でも、学生時代は。

なんとなく親がいて、安心してて。

なんとなく学校があって、安心してて。

なんとなく課題とかあって、安心してて。

なんとなく友人もいて、安心してて。

なんとなく毎日することがあって、安心してて。

なんとなく好きな人たちがいて、安心してて。

なんとなくムカつく先生がいて、安心してて。

 

ほんとうは、「安心している」ということさえ自覚してなくて。

 

 

 

もし「この先どうなるんだろう。」って心配するような状況にあるとしたら。

それは、それほど悪いことじゃないかもしれない、と思う。

 

だって重要な問いだから。

生き方を考えるチャンスと思う。

 

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今まで、不登校の生徒に何人も関わらせてもらった。

教室に通えない理由は人それぞれ。

っていうか、本人も理由を理解していないことの方が多いと思う。

 

僕は当時から「学校という仕組み自体が極めて特殊な擬似社会」だと思っていた。

 

だから彼らに「登校できるようになる」ことを目的として関わったことはなかった。

 

本人が「登校できるようになりたい」と口にする場合もあったから、もちろんできる範囲で協力した。

 

 

でも、あのとき彼らに本当に伝えたかったことは、そして実際に言葉として伝えていたことは・・・。

 

 

 

今の状況はチャンスなんじゃないの?

 

 

 

っていうことでした。

 

レールに乗って安心している人たちは、無自覚のまま時間だけが過ぎているのかもしれない。

 

だからせっかく学校に行っていないのだから、これはチャンスだと思った。

 

 

「この先どうなるんだろう。」

 

 

そう思うことは悪いことじゃないと思う。

 

でも多くの場合、不登校の子は、後ろめたく思っていたり、勉強を気にしていたり。

はっきり言って、そんなもの後からでもどうにでもなる。

勉強だってマジでいつだってできる。

 

だからせっかく学校に行っていないのだから。

好きなことをしたり、いくらでも自分に投資できると思ってた。

 

 

当時は、僕自身がまだレールを降りることに怯えていた。

だから、自分はレールに乗っているくせに、「レールから外れた」と思って不安がっている彼らに対して、あまり無責任なことは言えない気がした。

 

 

でももし今、彼らに話ができるとしたら。

 

 

 

「めっちゃチャンスやで!!!」

 

 

 

って、超言いたい。

 

 

 

人生でことを成した人って、どこかで「この先どうなるんだろう。」っていうのにぶつかっている人が、僕の知るかぎりでもやっぱ多い。

 

僕は、そんなの怖いから、ぶつからないで済むように、きた。

教職をとったのも多分そう。

 

そんな人、多いんじゃない?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「仕事に行きたくない」「学校に行きたくない」はどうすればいい。

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お正月の好きなところは、休みがあるところ。

お正月の嫌いなところは、休みが終わるところ。

 

ほんと、お正月って儚いです。

 

 

休みの期間が終わって、仕事や学校にいく日が近づいてくると憂鬱になります。

 

特に教員時代の私はそうでした。

 

お正月や夏休みの時期には、部活があったからちょくちょく学校には行っていたものの、それでもやはり始業式の前日には、ものすごく憂鬱になったものですね。

 

 

「学校が始まるのが嫌なのは、生徒だけじゃぁないぜ」

 

 

むしろ教員のほうが、学校始まってほしくないと思ってると思うよ。

 

 

それはさておき。

 

 

学校が始まるのも、仕事が始まるのも、本当につらすぎますよね。

この憂鬱はどうしたらいいんでしょうか。

 

 

 

 

 

■つらさの原因は『思い込み』?

 

まず学校や仕事へいくことのつらさの原因には、さまざまな『思い込み』があると思っています。

 

多くの『〇〇しなければいけない』という『思い込み』です。

 

 

・生徒にためになる話をしなければいけない

・生徒をやる気にさせなければいけない

・上司とスムーズに話をしなければいけない

・職場の人間と合わなければいけない

・いい授業をしなければいけない

・やる気があるように見えなければいけない

・服装が整っていなければいけない

・保護者とスムーズに話をしなければいけない

・報告書を出さなければいけない

・行事の企画を進めなければいけない

・大会参加の申し込み手続きをしなければいけない

・期日に間に合わなければいけない

・優れてなければいけない

・嫌いな人間にあわなくてはいけない

・成長しなければいけない

・成長していなければいけない

・宿題をやらなければいけない

・朝、起きなければいけない

・仕事に行かなければいけない

・学校に行かなければいけない

 

などなど。

 

僕たちは、多くの「しなければいけない」という「思い込み」をもっているかもしれません。

 

 

 

 

「いやいや、仕事に行かなきゃいけないのは思い込みじゃないだろう。」

 

 

 

 

と思う人もいらっしゃると思います。

 

ここで僕が言いたいのは、実際に仕事に「行く」or「行かない」ということが問題ではなく、「行かなければいけない」という思い込みが絶対的なものになっていることが、苦しみの原因になっているのではないかということです。

 

 

 

 

そもそも僕たち人間にとって、本当に「〇〇しなければいけない」という事柄はそれほど多くあるのでしょうか。

 

と思います。

 

 

 

たとえば

・呼吸をしなければいけない

・う○こをしなければいけない

などは、僕も絶対的にしなくちゃならない事だと思います。

 

 

 

でも、これに比べたら、先にあげたものなんて、まぁどうだっていいことのように思います。

 

 

 

 

バカバカしいと思う人は、おそらく実際に呼吸ができない状況になったことがない人なのだろうと思います。

 

 

普段、意識もせずに苦も無くできているからといって、重要度が低いということにはならないと思うのです。

 

 

どうして僕たちは、そうした「どうだっていいこと」を重要なことだと思い込んでいるのか。

そのために苦しんでしまうのか。

 

 

それはやはり「教育」に原因があると思っています。

 

 

僕たちは幼いころから、家庭から、学校から、メディアから、「教育」され続けます。

 

 

・勉強しなくちゃいけない

・いい学校に行かなくちゃいけない

・いい仕事につかなくちゃいけない

・結婚しなくちゃいけない

 

 

などを言われ続けますね。

 

一見、正論のように思います。

 

確かに、たとえば勉強できる環境にあるのなら、それは恵まれていることだから、その恵まれている状況を享受すればいいとは思います。

 

しかし、それが「ねばならない」かとなると、話は別だと思うのです。

 

 

勉強にせよ、進学にせよ、就職にせよ、結婚にせよ。

 

 

本来は、自分の目的に合わせて「選択」する行動なはずです。

 

 

ところが多くの場合、それらを「ねばならないこと」として教育する環境が多すぎると思うのです。

 

 

 

「いや、今の学校(会社)に行く事に決めたのは、本人が選択したことだろ」

 

 

 

という人がいるかも知れません。

 

表向きには、確かにそうです。

 

 

しかし、本当に本音で選択したのかどうか、と問われたらNOである人がほとんどではないでしょうか。

 

つまり、たとえば就職の時期が迫った場合に、「就職する道」と「就職しない道」の両方を、どちらも同じだけの比重で検討したのか。

 

どちらの可能性も同じだけ考えて、その上で「就職する道」を選んだのかどうか。

「就職しない道」も同じだけ選ぶ可能性があったのかどうか。

 

 

ほとんどの場合が、「なんとなく」「そういう時期だから」「周りの目があるから」という理由で、決めているのが現状だと思います。

 

なんとなく世間体が気になるから、つまり、他者の目の集合体によって「義務」づけられている、そういう感覚が、本人の中にあるはずだと思うのです。

 

 

そして、他者の目の集合体によって心理的な義務を負わせること、それが教育であると思っています。

(教育は学校だけで行われているわけではなく、家庭、メディアも行っていると思うよ)

 

 

 

 

多分、僕たちの中には、「教育」によって、無自覚のうちに沢山の「しなくてはいけないこと」が植え付けられてしまっていると言えそうです。

 

 

 

問題なのは、無自覚のうちに植え付けられたというところだと思います。

 

 

つまり、自分で決めたわけでもないのに義務と思っている。

そこに苦しさの原因があると思っています。

 

僕たちは、自分で決めたことに関しては、あまり苦しみを感じにくい気がします

 

反対に、他人が決めたことを強要されることに関しては、苦しみを感じやすい気がします。

 

 

 

じゃあ現状の苦しみはどうすればいいのか。

 

 

 

一つ目は、「自分の中にどういう思い込みの義務があるのか」を把握する。

二つ目は、「自分でもう一度選ぶ、選び直す」

 

 

ということが大切だと思うのです。

 

 

■「紙とペン」で自分の思いを吐き出す。

 

人は同じことを何時間も何日も何ヶ月も、思い悩んだりすることがあります。

 

その理由は、そもそも人は「頭の中では考えること」が苦手だから、だと思います。

 

頭の中では、考えているようで実は、同じ発問と答えをくり返しているだけになってしまいます。

 

 

そこで、必要になるものは「紙とペン」です。

 

 

もし今、憂鬱な気持ちになっていたり、心配なことがあったり、イライラすることがあるのなら、すぐに「紙とペン」を用意することを超おススメします。

 

本来、「考える」という行為は、もっと体を使った作業のようです。

 

チラシの裏でもノートでもなんでもいいので「紙」を用意して、そこに「今思っていること」をなんでもいいから書き出します。

 

ルールは一つだけです。

 

「良い悪いの判断をしない」

 

ということです。

 

「こんなこと書いて良いのかな」とか一切考える必要はなしです。

むしろそのような場合、「こんなこと書いて良いのかな」と書きます。

 

例えば、ムカつく人間がいたとして、そいつに腹が立っている場合は、「〇〇しね」なんていうのも遠慮なく書きます。

何度でも書きたいなら10回でも20回でも書きます。

〇〇のところには、実名を書く方がいいです。

 

抵抗がある人は、紙に書くことは自分の思いに気づくことであり、本人に直接言うこととは全く別の行為であるということを認識するといいと思います。

 

 

「仕事に行きたくない」

「あいつがムカつく」

「泣きたい」

「どうして俺ばっかり」

「みんなしね」

・・・・・

 

遠慮なく書きます。

 

最初はネガティブな言葉が多くなるかも知れませんが、無理にネガティブなことを書こうとしなくてもいいです。

 

 

「良い悪いの判断をしない」

 

 

これがただ一つのルールなので、頭に浮かんだことをそのままにどんどん書き出します。

 

 

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私は、10年以上前から、思いを書き出すことが習慣になっています。

「クソノート」

デスノート」 

ジャーナリング

「モーニングノート」

など、呼び方はいろいろあります。

これによって得られるメリットは超あります(語彙)。

ぜひやりましょう!!

不思議とこの行為をするだけで、気分が晴れる場合もあります。

気づいたら問題が解決していた(というかそもそも問題ではなかったと気づく)、なんていうこともよくあります。

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この「クソノート」をやると、自分でも気づかなかった思い込みに気づくときがしばしばあります。

 

「そうか、オレはこんなことを考えてたんだ!!」

 

と、結構びっくりしすることがあります。

 

 

 

「そうか、自分がちゃんと評価されていないと思っているんだな」

「そうか、失敗することが怖いんだな」

などと自分の思いが客観視できて、

 

「自分は高い評価を得なきゃいけないと思っているんだな」

「自分は失敗しちゃいけないと思っているんだな」

などの思い込みに気づくこともあります。

 

 

自分の思いを客観視していないこと、思い込みに気付いていないこと、それが苦しみの原因になっている場合は多いです。

 

それらに気づき、客観視できれば、苦しみは半減させることもできるかもしれません。

 

 

 

■自分で選ぶ、選び直す

 

「紙とペン」で自分の思い込みに気づいたら、その次はぜひ「自分で選び直す」ことをしていこう。

 

自分で選び直すと言っても、たとえば「仕事を辞めよう」というような大きな決断のことだけではありません。

 

 

「そうか、自分は仕事を辞めたいけど怖いのか。そりゃ怖いよな。今すぐ辞めるのは怖いから、まだ続けよう。」

というように自分で行動を選べばいいと思うのです。

 

「辞めたいのに辞められない!!」

   ↓

「仕事行かなきゃ!!」

 

ではなく。

 

「辞めたいけど、怖いよね。」

   ↓

「今は怖いから仕事に行くか」

 

という感じでしょうか。

 

 

行動自体は変わっていないけど、後者のほうが自分で行動を選んでいると言えそうです。

 

そのうち、「今は仕事に行くけど、ちょっと他の道も調べてみよう」となるかもしれません。

 

(このときも「紙とペン」を使って、言葉にしていったほうがいいと思いますが、無理にこのような流れを作る必要なないです。「イヤなものはイヤなんだ!!」とばかりに本音を吐き出すことが優先です)

 

たとえ今は望む行動でなかったとしても、「自分の行動を自分で選んでいる」ということがストレスを軽減させて、自分の人生を取り戻すきっかけになると思うのです。

 

 

■自分の人生を取り戻そう

 

教員をしていると、どうしても「生徒に無駄な義務を植え付けている」という気持ちになることがありました。

 

さらには、コロナ禍における休校期間には、義務から解放されたはずの生徒がやがて「何をしていいのかわからない」という状態になりました。

 

「自分で行動を選択することに慣れていない」のではないか。

そのような人間を作っているのではないか。

そう思いました。

 

また、自分自身もそのような教育を受けるなかで、思い込みに囚われ生きてきたと思います。

 

そしてやはり、私も「どのように行動を選択すればいいのかわからない」のだということを痛感しました。

 

人は本来、「自分で選択する」生き物だと思います。

 

そこに人生の手応えがあると思う。

 

人生は必ず終わる。

もちろん優劣はないと思う。

良い悪いはない。

 

やっていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

教師辞めたらどうなる?なんとかなんじゃね。

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と、思いました。

ほんとに。

 

もちろん「なんとかなる」のは、周りの人たちあってのことだけどね。

 

だから、よほど人との繋がりを保てないような、コミュニケーションマイナスな人間ででもない限り、教師を辞めたところで、仕事を辞めたところで、よほどのことは起きない。

 

起きえない、と思う。

 

「人生を変えたい」そう思う人はきっと多い。

 

それだけ、人生を変えるのは難しいっていうことかもしれない。

 

で、あるなら。

 

 

 

 

人生を悪い方に変えていくことだって、難しいんだよ。

 

 

 

 

多分、教師を辞めただけで、サラリーマンを辞めただけで、人生を壊滅させるのは、相当にむずかしい。

 

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この5ヶ月の間、ほぼほぼ毎日「鳶」として仕事をしていました。

 

体力仕事なので、体重は落ちたし、う○こもよく出て、なんだかとても健康的だ。

 

いろんな現場に行ったけど、この仕事はほぼ一年中同じようなことを続ける。

 

教員であれば、行事や試験などがあって、一年間の「季節の流れ」の中で仕事も変化するけど。

 

この仕事は「季節の流れ」は無くて、毎日毎日ひたすらやり続ける、っていう感じだ。

 

土曜日も祝日も仕事なので、本当に「ひたすら」っていう感じがする。

 

関わる人たちも、教員時代とはまるで違う。

 

 

→ 「刺青」が入っていない人の方が少ない

→ なんかしら「前科」がある人が多い

→ おっさん達は「歯がない」ままの人が多い

 

 

教員時代には、いなかったよね。

 

でも皆なんていうか、「ちゃんとしている」と感じる。

 

普通だ。

 

ある意味やさしいし。

 

命懸けの仕事だから、怒る時はマジで怒るし、でも後腐れはない。

 

 

逆に教員には「偽善的なよそよそしさ」をもつ人が多かったかも知れない。

(もちろんそうでない人たちもいたが)

 

生徒に対しても、偽善的で、よそよそしくて、そのくせ押し付けがましくて、いつでも取り繕っている、そんな指導やコミュニケーションしかできない教員も多かったと思う。

(もちろんそうでない人たちもいたよ)

 

 

 

そんな「偽善的な人」は、この仕事にはいない。

 

 

 

だってそんなもの意味ないもん。

 

50メートル上空にある、幅20cm程度の足場板の上に乗って、4mもある鉄パイプを垂直に持ち上げていく。

 

そんな時に、偽善もなにもないもんだ。

取り繕うもなにもないもんだ。

余計なものは余計です。

 

 

僕には、全く向いていないタイプの仕事ですわ。

修行、経験、勉強、そういうつもりでやっています。

いつまでやるのかな。

収入は半減。

別にお金のためにやっているわけではないから苦ではない。

 

 

いつまでやるんだろう。

これからどうしていくんだろう。

 

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この5ヶ月、何度か演劇のオーディションも受けたけど、全敗。

なんでやねん!!

結構、8月の演劇とか頑張ったんだけどなー。

まぁ、また次の機会を探そう。

 

 

 

2021年はもうすぐ終わる。

 

 

 

去年の今頃は、「あぁ、教師辞めたらどうしよう。一体どうなるんだろう」って途方に暮れていた。

 

まだ生きてます。

余裕です。

 

養う人もいないからね、でもそんなものは人それぞれで、大体余裕だろ。

 

 

 

 

【1月〜3月】

教師辞めたらどうなっちゃうんだろうと、途方に暮れていた。

 

【4月〜6月】

無職突入。やっぱりつらかったな。でも「一人ぼっち」というのがどういうものか知れたと思うよ。

 

【7月】

演劇できた。楽しかった。

 

【8月〜12月】

ほぼほぼ毎日「鳶」の仕事。

 

 

 

 

まとめれば、これだけの一年間だな。

まだまだこれからだと思っています。

 

 

 

人生を変えるのは、簡単なの?難しいの?

知らん。

 

 

 

見た目の変化はそんなにアレだけど。

 

内面的には変化したと思います。

 

 

 

今までの生き方を後悔したし、自分を全く好きになれなくなったりしたし、この世のことも「大っ嫌いズラ!!」と思ったし。

 

そんな時はよく泣けたズラ。

 

ある日、赤ちゃんを抱っこしている女性が、寒くないようにと毛布で赤ちゃんを優しくくるんでいる姿を見かけて・・・・。

 

泣けたw。

 

「人はああやって大事に愛されて生まれてくるのに、オイラもあんな風に愛されていただろうに。どうして自分を好きになれないのだろう・・・・」

 

なんて思って。

泣けたw。

44のおっさんが。

 

 

 

 

 

でもね。

 

自分を好きとか、嫌いとか、そんなことはもういいと。

 

ありがとうございます。

オイラは十分に大事にしてもらっています。

今までも本当に大事にしてもらいました。

 

 

 

人生は、『期限付きレンタルの肉袋を使ってなにかをしよう』ってことだけ。

 

 

 

肉袋は単なる道具。

道具の優秀さをアピールしあっても仕方ないし、それで焦ったり落ち込んだりしたってしょうがないよね。

道具を人から大事にしてもらえるかどうかも、まあいいことではあるよね。

他人の功績と自分を比較して、落ち込んでも仕方ないし。

歳をとったことも、歳をとっていくことも、受け入れるしかないよね。

道具だもん。

 

 

 

 

大事なのは何をするか。

 

 

 

たとえ時間がかかっても、やるよ。

 

 

 

僕は、教員を辞めてよかった。

これは本当に本心。

あのまま続けてたら、間違いなく腐ってたと思う。

生徒のためになっているとは思えなかったし。

 

 

 

 

期限付きのこの道具をちゃんと使うんだ。

教師をやっていたら、そんなふうには思えていなかったと思う。

 

 

 

 

新しい出会いもありました。

 

 

 

鳶には鳶の人たちがいる。

演劇をした人たちとも交流させてもらっている。

40代50代で「やっぱりやりたいことやろう」と演劇を始めた人たちもゴマンといた。

 

 

 

 

学校の外にも世界はある。

教員以外にも世界はある。

外に出れば、そこにはそこの世界がある。

そこにはそこの人がいる。

実際にいる。

 

 

 

教師を辞めるとき、生徒宛に書いた何かの文章の中に、『大きく広く考えられる人に一緒になっていきたいです』という一言を書いていた。

 

まだまだこれから。

 

もっともっと大きく広くなるんだ。

 

 

そう思っています。

 

 

 

 

 

 

 

絶対に勝てないゲーム

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(初めて「アジェンダ」に出会ったのは、もう4年も前のこと。ヨコモジをいち早く取り入れる先輩がいたんです。もちろん尊敬できる先輩でした。)

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(お台場にはホントに「ダイバーシティ」っていうのがあるんだね。しらんかった。)

(あと昨今のヨコモジ文化なんなんだよ!!ニッポン人だろ、目で話したまえ!!)

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なんか、あれだよな。

 

ずっと、『他者(世界)から自分の価値を認めてもらいたい』と思っているよな。

 

物心ついた時から、ずっとそう思っている。

 

小学校高学年くらいからかな?

中学生の時くらいからかな?

 

 

 

 

 

 

 

→「自分の価値を認めてもらうために」他者(世界)が存在している。

 

→ 他者(世界)は「俺の価値を認めるために」存在している。

 

→ 他者(世界)が俺の価値を認めてくれないと、自分が無価値な存在になってしまう。

 

→ 他者(世界)が負けてくれることで、自分が勝てる。

 

→ 他者(世界)が俺より劣ってくれないと、自分には価値がない。

 

 

 

 

 

 

 

僕たちが「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界は。

 

 

 

 

 

 

なぜか知らないけど、「自分」というものがあった。

で、必然的に「自分以外」があった。

つまり「他者」があった。

 

 

なんだか、「他者」って「世界」そのもののようで。

 

 

 

「自分」と「世界」があった。

 

 

 

 

で、なぜか知らないけど。

 

だいたい、いつも「自分の価値を確認したがってた」。

 

 

 

その確認の方法が。

 

 

 

「世界(他者)よりも、自分の方がすごい」と思えること。

 

 

 

っていう気がする。

 

 

 

「上と下」で考えていて。

 

 

 

ある一定よりは「上」にいたい。

 

 

 

 

 

 

「上」に行けるためには、誰かに「下」に行ってもらう必要がある。

 

 

 

できるだけ「上」なら、他者(世界)から憧れてもらえる。

他者(世界)から羨ましがってもらえる。

他者(世界)から必要とされる。

 

 

 

 

そんなんで、ようやく自分に価値があると思えて、安心できる。

 

 

 

 

 

それが叶わなければ、自分も好きになれないし、世界も好きになれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんでだろう?

 

「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界には。

 

「自分」と「他者(世界)」があって。

 

 

 

 

とことん他者を利用することでしか、自分の価値を感じられない。

 

自分を好きになれない。

 

 

 

 

 

そういう人って、きっとすごく多い。

(含オレ)

なんで?

 

 

 

「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界では。

 

 

なに、そういう設定なの?

 

何でそういう設定にしたの?

 

 

 

 

 

 

で、このゲームは。

 

 

 

まぁ、はっきり言って勝てない。

 

 

みたい。

 

 

 

 

 

 

ごくたまに勝った時もあったりした気もするけど。

 

最終的には必ず負ける。

 

 

 

 

 

みたい。

 

 

 

 

 

そんなゲームを、ずっと続けてきた(続けている)。

 

みたい。

 

 

 

 

 

だいたい小学校5、6年くらいの時にスタートするかな。

中学校の時も。

高校の時も。

大学の時も。

教員の時も。

バンドをやってた時も。

授業をしてた時も。

絵を描いてる時も。

電車に乗ってる時も。

スタバにいる時も。

ニートで塾講してた時も。

 

 

 

 

 

 

 

で。

 

 

 

 

 

 

気づいたら44歳で、なんか「あれ?」ってなって。

「あれ、オレこの人生で何かした?」ってなって。

「なんもしてなくね?」ってなって。

「なんか意味あることした?」ってなって。

「なにこれ?」ってなっちった。

えへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝てない。

勝てない。

勝てない。

勝てない。

勝てない。 

 

からの。

 

価値ない。

価値ない。

価値ない。

価値ない。

価値ない。

 

からの。

 

年取るとさらに価値ない。

年取るとさらに価値ない。

年取るとさらに価値ない。

年取るとさらに価値ない。

年取るとさらに価値ない。

 

からの。

 

じゃあこれからますます価値ないじゃん。

じゃあこれからますます価値ないじゃん。

じゃあこれからますます価値ないじゃん。

じゃあこれからますます価値ないじゃん。

じゃあこれからますます価値ないじゃん。

 

からの。

 

44年意味なかったし。

44年意味なかったし。

44年意味なかったし。

44年意味なかったし。

44年意味なかったし。

 

からの。

 

もうだめじゃん。

もうだめじゃん。

もうだめじゃん。

もうだめじゃん。

もうだめじゃん。

 

からの。

 

 

 

 

もう自分を好きになれない!!

ずっと好きになれたことがない!!

この世も嫌いなんじゃ!!

 

 

 

 

 

ってさ。

 

 

 

 

 

 

そもそもの原因は。

 

 

 

 

そんなゲームをずっとしていたから。

 

 

 

 

だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう無理じゃ。だって勝てないし。これから先はさらに勝てない。」

 

「もういやじゃ。オイラだってそれなりに頑張ってきたのに。どうして自分を好きになれない?どうしてこの世を好きになれない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうやめちゃおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなゲーム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だってもう絶対に勝てないもん。

 

 

 

 

 

 

 

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だから、やめちゃおう。

 

 

もういいや。

 

 

勝てねーし。

 

 

 

 

自分が勝つことはいーや。

 

 

 

 

 

 

そんなことよりも、何かすることがあるような気がする。

そんなことよりも、何かすることがあったような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「絶対に勝てないゲーム」をするために必要なものは、「評価」「判断」。

 

人にも物事にも、「良い」「悪い」、「正しい」「間違い」、「快」「不快」、「優」「劣」っていう評価や判断を、レッテルを貼ること。

 

もしそれがなければ、他者に負けて欲しいとも、自分が優れていたいとも、思えないから、「絶対に勝てないゲーム」をすることができなくなってしまう。

 

 

「評価」も「判断」も、僕らはなぜかどうしてもやってしまう。

 

だから「絶対に勝てないゲーム」をし続けていられる。

 

もちろん「評価」も「判断」もできなかったら、生物として生きていけない。

 

だって、身に迫る危険も、命を守るための行動も、わからないから。

 

だから「評価」も「判断」も無くなることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもの頃からずっと、なにをするにも「オレのこと、すごいと思ってくれ」というのが動機で。

 

気づかないうちに、絶対に勝てないゲームをし続けて。

 

たまに、勝ったように思うときには、有頂天になったりして。

 

たいていの場合は、負けていて、生きてる意味ねーとかなったりして。

 

時間が経つほど、どんどん勝てなくなっていって。

 

自分の価値も、世界の価値もわからなくなって。

 

どうせ負けるなら、なにをしても意味ないってなって。

 

まぁ、見失っちゃう。

 

あれぇ、何かすることがあったと思うのになぁ。

 

こういうことじゃなくて、何かすることがあったはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界には。

 

なぜか知らないけど、「自分」と「他者(世界)」っていうのが設定されてた。

 

そこで、ずっと他人が負けてくれることで自分が勝てる、絶対に勝てないゲームをし続けて。

 

 

 

 

時間がたった。

 

 

ずいぶん時間がたった。

 

 

ほんとうは何か、そういう感じじゃなくて、することがあったと思うけど。

 

 

そういうのに、早く気づく人もいるんだろうと思う。

 

中学生くらいの時とか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界には。

 

なぜか知らないけど、「自分」と「他者」っていう設定があって。

 

あとなぜか知らないけど、このくらいの大きさの肉体が一つだけ与えられてて。

 

一定の時間だけ動かせるようになってて。

 

なぜか「評価」と「判断」があって。

 

時間がきたら、終わりで。

 

 

 

 

 

なんか知らないけど、もろもろそういう設定になってて。

 

そういうゲームをしてても、なんかもうダメそうだし。

 

なんかすることがあると思うから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やめちゃおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

評価して判断して。

時間がきたら終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうそういうのいいです。

 

 

 

だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やめちゃうんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何かすることがあると思うし。

 

 

 

 

そういう意味では、僕はまだあきらめないよ。

 

 

 

 

 

 

 

「未成熟な者の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。

これに反して、成熟した者の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。」

 

↑ 言ってみたかっただけ。

 

 

 

 

 

 

 

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↑ 成熟した者。

 

 

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↑ 成熟した本

 

 

 

 

 

 

歌っていいな。音楽っていいな。

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いきなりだけど。

 

歌っていいですねぇ。

 

音楽っていいですねぇ。

 

 

今日は久しぶりにキャストパワーネクストのレッスンに行った。

 

歌唱レッスンだった。

 

 

 

歌うのすきだ。

 

たのしいぜ。

 

カラオケは好きじゃない。

 

なんだか無理やり感があって好きじゃない。

 

 

 

でも、楽器とかでもなんでも、皆で歌を合わせたりするのは、とても楽しい。

 

今日の課題曲は久保田利伸の『LALALA LOVESONG』だった。

 

普段聞かないような、それほど興味のないような曲も、こうしてちゃんと習って歌うとなんだか『すごくいい曲だなぁ』ってしみじみ思ってしまう。

 

 

フォーカルジストニアじゃなかったらどんなによかったろうか・・・とか思っちゃう。

 

 

 

そういえば、子どものときから歌うのが好きだった。

 

ほんとよく歌ってた。

 

家が団地の4階で、階段を登って帰る途中、1階から4階までの全ての踊り場で「パーマンの主題歌」をワンコーラス全て歌ってから家に帰ってた。

 

家に帰るまでに、合計4回も「パーマンの主題歌」を歌ったってことね。

 

歌うと気持ちいいのだ。

 

 

 

そう考えると、好きなことってたくさんあるんじゃないか。

 

やりたいことって本当はあるんじゃないのかね。

 

 

 

 

忘れたり、遠ざけたり、価値がないとか決めつけたりしちゃうのは、経済につながらないと意味がないと考えちゃうからなのかね。

 

 

楽器に合わせたり、人と合わせたりして、もっと歌いたい。

 

だから聞いてくれる人や一緒にやる仲間は必要だよね。

 

つまりなんでも「場」は必要なんだろうね

 

 

 

 

 

必ず死ぬことも、一度しかないことも、老いていくことも、もう忘れたくないです。

 

 

 

 

 

 

人生の目的。人生の使い方。

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↑昔、生徒のために書いてあげた絵。

ボクは結構、生徒に絵をプレゼントしてたな。

 

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初めての演劇が終わって、早くも1週間が経ちます。

 

その間、鳶の仕事を再開し、連日の猛暑の中、体力仕事をしています。

 

 

 

キツイときは、中学の時の夏休みの部活動を思いだします。

 

ちなみにボクは心臓が悪いようで、体力は当時から弱く、マラソン大会ではタバコを吸っていた同級生よりも成績が悪かったです。

 

 

それはさておき。

 

 

朝は4時30分に起きて、5時15分にむかえにきてくれる車に乗ります。

 

帰りは早くて、18時30分ころ。

 

遅ければ、19時30分くらいになります。

 

そこから風呂、食事、洗濯、掃除とかやってると、あっという間に21時すぎかな。

 

翌日を考えれば22時には寝たいところ。

 

思ってたより時間的には厳しいのだな、鳶って。

 

職長や社長は、これに加えていろいろな事務処理をしているのか。

 

すげーな。

 

今日は一日休みでした。

 

コーヒー屋で、読書。

 

一週間ほど、体を使って作業していると、活字を欲する感じがした。

 

本を読むと、活字情報が『ジュワ〜〜』と音をたてて脳みそに染み込んでいく気がした。

 

ちょっと気持ちがよかったよ。

 

 

 

読んでた本は、コレ↓。 

君に成功を贈る

君に成功を贈る

Amazon

なんかね、もうタイトルに「成功」って言葉があると、ゲップが出ちゃうようになっているんです、ぼく。

 

一時期、自己啓発系の本にハマって、かなり読んだからね。

 

「成功」っていうフレーズに食傷気味になってます。

 

でも、この本は、そういう「成功ハウトゥーもの」という感じではないと思う。

 

著者の中村天風氏の講演の言葉をまとめたもので、とにかく「心を積極的にせよ」「たった1度の人生、価値高く生きろ」などと、中村氏は聴衆を激励し続けているようです。

 

氏は、華族に生まれながらも「軍事探偵」(スパイのようなものだが実情は映画のように華やかなものではなく極めて過酷)となり、数年間その任務についた。

最底辺の過酷な環境で数年間生きたという経験をもつなど波瀾の人生を送ってきたそうです。

 

 

 

ぼくがこの本から感じたことは。

(あくまで感想ではなく、個人的に感じたこと)

 

 

 

■人は誰でも、環境の支配に甘んじることなく、自分から理想をクリエイトすることができる。

 

■そして、そうすることが生まれてきた意味であり、それをしなきゃ生まれた価値がないじゃないか。

 

■年齢は関係ない。いくつになっても情熱を燃やそう。たとえ明日死ぬことになっても。

 

■不幸は、誰かから植え付けられた概念・洗脳。心をいつでも積極的にせよ。決して消極的にするな。

 

■そもそも幸も不幸もつきつめれば個人の感覚。勝手に「この状態は不幸」「この状態でなくちゃ幸福ではない」などとメディア・マスコミ・教育は決めつけ、その価値観を押し付ける。

 

■この世には、人の心を消極的にさせる洗脳・情報があふれている。

 

■人生は1度しかなく、必ず終わり次はない。そうはっきりと気付いたら、どうして消極的に生きられようか。

 

■「愚痴」「文句」「弱音」そんな消極的な言葉を言って、物事が解決するならどんどん言えばいい。

 

 

 

 

 

あくまで、個人的に感じたことなので、実際の内容そのものではないかもしれませんが。

 

「感じたこと」っていうか、ボクが個人的に「受けとったこと」って感じかな。 

 

 

 

 

 

 

僕たちは、生まれてからずっと、誰からも「人生を教わらない」。

 

そのかわり親や教師やメディアから、消極的で悲観的で不安をあおる情報を与えられ続けている。

 

そしてそれを「人生」と思い込んでいる。

 

彼らは決して、人生を教えていない。

 

教えていることは、「安全な道」。

 

いや、「安全そうに見える道」。

 

もし彼らの教えるその道を進むことに甘んじて、死の間際に人生の意義を見出せず後悔するとしたら、そのリスクは計り知れないと言えるかもしれない。

 

彼らが教えることは、「人生」ではありえない。

 

 

本当にまっさらな気持ちで、親の言うこと、教師の言うこと、メディアの言うことをよく見てみたときに。

 

それは「自分の人生のためになる話」なのかどうか。

 

本当に本当にまっさら気持ちでよーく見たら。

 

それは「親の利益になる」「教師の利益になる」「メディアの利益になる」そんな情報ばかりなはず。

 

(もし、「そうではない」と言える人がいるとしたら、それはものすごくラッキーだと思う。)

 

親が望むもの、教師が望むもの、メディアが望むものは。

 

 

 

 

あなたが不安を与えないこと。

あなたが余計なことをしないこと。

あなたが予定どおりに動くこと。

あなたが予定どおりにお金を払うこと。

できれば人より多く払うこと。

他人と競争し続け、人より多く払うこと。 

 

 

 

そんなとこ?。 

 

 

 

 

あなたが暴れたり、余計なことを言ったり、したりせずに、順調に成長してとにかく納税してくれる体制を構築してくれさえすればいい。

 

そんな本音が見て取れるでしょう。

 

 

 

 

 

 

転じて、古今問わず偉人と言われる人、 自分の人生をしっかりと生きている人、そんな人たちの発する言葉や情報は、親や教師やメディアのそれとは、もう全くちがう。

 

ということに気づく。

 

 

 

 

あなたがこの 地球に生まれたのには、意味があり、理由があり、必要がある。

その意味と理由と必要を体現しよう。

一度切りの人生、夢を目的をゴールをもって生きることに何の遠慮がいるだろう。

夢を実現するために生きよう。

未来にゴールを設定しよう。

こうなったらいいなというゴール。

それは人と比べるものではない。

人と比較しない。

人は仲間と思う。

無理に付き合う必要はない。

大切なのは自分の目的、夢、ゴール。

そのために生きることが人生。

自分を幸せにして、人を幸せにしよう。

やりたいことのために努力しよう。

搾取してくる者のためにする努力とは区別しよう。

自分は楽しく生きた!!そして人の幸せにも貢献できた!!自分の生きたことに満足だし納得できる!!学ぶべきものも多く、人にも気づきを与えられた!!自分で決めることができた!!そんな生き方が必ずできる。誰にでもそんな生き方をすることができる。だから今からそんな生き方を目指そう。

 

 

 

 

 

 

遅すぎるということはない。

やろう。

絶対にそうなろう。

心を積極的に保とう。

消極的な言葉・情報・考え方に自覚的になろう。

なろう。

必ず、死ぬときに納得を。

誰からの評価も必要とせずに。

自分でしっかりと評価して。

しっかりと納得しよう。

もう、家畜の生き方ではない。

必ず。

 

 

 

 

 

 

airstudioプロデュース公演『OVERTIME』千秋楽でした!!

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左端のアホヅラがワイじゃ。

 

昨日が千秋楽でした。

 

一夜明けて、今日は鳶の仕事を再開しました。

 

先ほど帰宅。

 

 

 

 

 

おわったなぁー。

 

 

とても楽しかった。

 

 

演劇ってとても楽しいんだな。

 

こんなことができて、ぼくはありがたいと思っているよ。

 

この3週間、通い続けた両国。

 

稽古場への道。

 

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稽古のときを思うと、遠い昔のことのように思うのに、あっという間にすぎた3週間。

 

不思議な時間感覚だった。

 

 

思ったことをいくつか書きたいが、その前に。

 

 

 

 

楽しかったー!!

何度でもやりたいと思うぜ。

そしてもっと若いときからやっときゃよかったぜ!!

 

 

 

 

と、思うぜ。

 

ひとつ言いたいのは、やりたいと思っていることがあるならやったほうがいいと思う、ということ。

 

リスクに対して対処できることなら、絶対にやったほうがいい。

 

そう思う。

 

 

 

 

① おれの理想の人生は、一生、文化祭をすること。

 

と、思う。

 

これの意味は、「経済とかそういうことは差し置いて」っていう意味があると思うけど。

 

できるなら、死ぬまで文化祭をしていたいよ。

 

劇は、ほんとに楽しかった。

 

どんな旅行より、バカンスより、ゲームより。

 

楽しかった。

 

これなら一生やっててもいいと思う。

 

大事なのは、それをこの現実世界の中で実現するためには、経済的なものとか、技術的なものとか、マインド的なものとか、そういうものと対峙する必要がある。

 

その辺が、本当の学生の文化祭と、仕事にした場合との違い、なんだろうかな。

 

 

 

でも、思うが。

そういうものって、必ずしも実現不可能なものでもないのかなって思う。

 

 

 

なぜか、いわゆるこのような芸能関係とか、脚本とか、そういうものって・・・・。

 

「食っていけない」というイメージが強いけど。

 

実際には、こうして仕事としてやっている人たちは、たくさんいる。

 

 

 

なぜか、この手の業界に関しては、食っていけないっていうイメージがある。

 

もちろん厳しい世界なのだろうけど。

 

 

 

でも、なんか。

 

 

「だれでも知っているような知名度をもつ人だけが仕事として成り立っている」わけではないのではないかな。

 

 

って思った。

 

 

だから「食っていけない」っていう言葉を言う人には、実際それで食っている多くの人たちが見えていないのではないか、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

例えば「教師」。

 

メディアにのるような有名な教師もいれば、オレみたいなクソサラリーマン教師もいる。

 

 

 

こういう芸能関係とか、作家とか、そういう世界だって同じなんじゃないのかな。

 

 

こういう世界を生業にしている人たちは、いる。

 

 

 

「職業」と「ファイナンス」は別ものと、苫米地秀人氏は言ってた。

 

 

 

「職業」とは、得意なこと楽しいと思うことやりたいこと他者への貢献になること

 

ファイナンス」とは、収入を得る手段。

 

 

 

この2つは別ものだと言ってた。

 

 

つまり、なんていうか。

 

 

「食っていけない」っていう言葉をいう人って・・・・。

 

テレビのみすぎ?

 

 

ちがうか。

 

 

なんていうか、自分の知っている世界が全てと思っているっていうか。

 

そんな気がします。

 

 

ごめんなさい、何を言っているのかわからないですね。

 

 

 

 

 

 

 

② 名残おしさに年齢は関係ない。

 

この3週間、毎日のように一緒にすごした人たち。

 

やっぱ最後は名残おしい。

 

それには年齢は関係ないようだ。

 

 

上は60代(?)から下は10代まで、幅広い年齢層のキャストだったけど、皆なごりおしそうだった。

 

実際ほとんどの人が言葉にだしてた。

 

 

おわっちゃうのがさみしいって。

 

 

ぼくらの班はチームワークもよかったしな。

 

 

 

「終わるのがさみしい」

 

 

 

これも演劇のひとつの要素なのだろうな。

 

 

 

昨日は、グループラインにちょっと長文のメッセージを勢いで送ってしまった。

 

一夜明けたら、ちょっと小っ恥ずかしくて、やんなきゃ良かったとか思ってたけど、 他の人も同じようなメッセージを送ってたから安心した。

 

 

 

 

 

 

 

③ 行動すれば、人と出会えるんだな。

 

ぼくは基本的に、人とあまり深く関われない。

 

プライベートでも会うひとって、ほんとにいないかも。

 

でも、鳶とか演劇とか、こうしていろんな人と会えている。

 

教師やめて最初の三ヶ月と少しは、だれにもあえなかった。

 

ちょっと時間のむだだったな。

 

ちょっと後悔。

 

 

 

行動をしたら、必ず誰かと出会えるのかもしれない。

 

 

本当はもっといろいろと話して、いろいろと聞きたい。

 

 

 

 

鳶には鳶の人の話があって、芸能には芸能の人の話がある。

 

 

 

 

学校をディスるつもりはないですが、学校にいたら絶対に聞けない話だ。

 

 

 

教師は絶対にもっていない話。

 

生徒には絶対に伝える術もない話。

 

 

 

  

 

 

 

今回ぼくのいたB班は、タカフジチヒロさんとか、長谷川想乃さんなどの、女優さんとしてとか、アイドルとしてとか活動している子がいた。

 

ぼくはこの人たちの仕事ぶりには結構感動したんだよね。

 

 

とくにタカフジチヒロさんは、見に来てくれたファンの一人一人の名前を覚えてて話しかけたり、とにかくいつでも明るく前向きだった。

 

ちょうど公演期間中に、23歳のバースデーを向かえました。

 

(23歳のとき、オレ何してた!? マジでクソだったと思うよ!!)

 

自分で好きな世界を見つけて、そこでこんなプロ意識をもって活動し続けているなんて・・・・すごいな、と思う。

 

 

もちろん、そんな人はたくさんいるのでしょう。

 

でも間近で見ると、やはりすごいと思ってしまう。

 

こんなカワイイ女の子が、それだけの覚悟をもって仕事して。

 

で、こんなに明るく生きられている。

 

「どうして、そんなふうにできるんだろう」ってボクは思ってしまう。

 

 

正直にいうと、「怖くないのかな」って思っちゃう。

 

さっきと矛盾していることを言っているようだけど・・・・。

 

 

オレだったら、怖くてそんな覚悟をもった生き方はできないと思う・・・・。

 

そこがオレの問題だよな。

 

だから自分の人生に責任を持てていないのだ。

 

で、40過ぎて、中年の危機になったんじゃないのか。

 

 

 

人生は必ず終わり、1度しかない。

 

 

そのことをボクは、いつも忘れる。

 

 

 

 

長谷川想乃さんは、アイドル活動してて、高校3年生なんだって。

(昨年度、おれが無責任にも大事な時期に放置した生徒のみんなと同い年だ。)

 

 

今は夏休みだけど、普段は6時間の授業を受けてから、放課後活動をしているらしい。

 

どんだけすごいんだ。

 

 

 

 

 

男子最年少だった、 橋本聖哉くん、24歳(かな)。

 

この子は、派遣で事務仕事しながら、これからも舞台俳優として、がんばっていくとのこと。

 

実際この子を初めてみたお客さんがファンになっとったで。

 

 

 

 

 

どうして、この人たちは自分の好きなことに対して「素直に行動できる」のだろう。

 

そういう人たちを目の前にして、なんか驚きがありました。

 

怖くないのかな。

 

すごいな。

 

 

 

 

 

 

ボクはいつまで、「自分が死ぬ」「人生は1度」ということを忘れているのだろうか。 

 

 

 

 

 

 

 

④ 「人と出会える」なんつって、自分に生かさなきゃ意味ない!!

 

こうして他人のことを、すごいすごい言ってても、何も変わらん。

 

オイラもがんばる。

 

絶対に、自分の人生に責任とった生き方をするよ。

 

「ボクはこうだった」っていうものをもって、死ぬよ。

 

がんばるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

演劇楽しかった。

正直もっとやりたい。

やろう。

次の機会を探そう。

 

 

 

須田さん、スタッフの皆さん、共演者の皆さん、観てくれた方々、本当にありがとうございました。