教師辞めた ブログ

15年間、教員をしました。このままでは生徒の見本になれない!!『生徒の見本になりたい』そう思ったから辞表を出しました。40過ぎた今から、自分で人生を掴むブログ。イラスト・漫画のお仕事募集してます。メールで相談してください。p-kamiyo@hotmail.co.jp

「仕事に行きたくない」「学校に行きたくない」はどうすればいい。

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お正月の好きなところは、休みがあるところ。

お正月の嫌いなところは、休みが終わるところ。

 

ほんと、お正月って儚いです。

 

 

休みの期間が終わって、仕事や学校にいく日が近づいてくると憂鬱になります。

 

特に教員時代の私はそうでした。

 

お正月や夏休みの時期には、部活があったからちょくちょく学校には行っていたものの、それでもやはり始業式の前日には、ものすごく憂鬱になったものですね。

 

 

「学校が始まるのが嫌なのは、生徒だけじゃぁないぜ」

 

 

むしろ教員のほうが、学校始まってほしくないと思ってると思うよ。

 

 

それはさておき。

 

 

学校が始まるのも、仕事が始まるのも、本当につらすぎますよね。

この憂鬱はどうしたらいいんでしょうか。

 

 

 

 

 

■つらさの原因は『思い込み』?

 

まず学校や仕事へいくことのつらさの原因には、さまざまな『思い込み』があると思っています。

 

多くの『〇〇しなければいけない』という『思い込み』です。

 

 

・生徒にためになる話をしなければいけない

・生徒をやる気にさせなければいけない

・上司とスムーズに話をしなければいけない

・職場の人間と合わなければいけない

・いい授業をしなければいけない

・やる気があるように見えなければいけない

・服装が整っていなければいけない

・保護者とスムーズに話をしなければいけない

・報告書を出さなければいけない

・行事の企画を進めなければいけない

・大会参加の申し込み手続きをしなければいけない

・期日に間に合わなければいけない

・優れてなければいけない

・嫌いな人間にあわなくてはいけない

・成長しなければいけない

・成長していなければいけない

・宿題をやらなければいけない

・朝、起きなければいけない

・仕事に行かなければいけない

・学校に行かなければいけない

 

などなど。

 

僕たちは、多くの「しなければいけない」という「思い込み」をもっているかもしれません。

 

 

 

 

「いやいや、仕事に行かなきゃいけないのは思い込みじゃないだろう。」

 

 

 

 

と思う人もいらっしゃると思います。

 

ここで僕が言いたいのは、実際に仕事に「行く」or「行かない」ということが問題ではなく、「行かなければいけない」という思い込みが絶対的なものになっていることが、苦しみの原因になっているのではないかということです。

 

 

 

 

そもそも僕たち人間にとって、本当に「〇〇しなければいけない」という事柄はそれほど多くあるのでしょうか。

 

と思います。

 

 

 

たとえば

・呼吸をしなければいけない

・う○こをしなければいけない

などは、僕も絶対的にしなくちゃならない事だと思います。

 

 

 

でも、これに比べたら、先にあげたものなんて、まぁどうだっていいことのように思います。

 

 

 

 

バカバカしいと思う人は、おそらく実際に呼吸ができない状況になったことがない人なのだろうと思います。

 

 

普段、意識もせずに苦も無くできているからといって、重要度が低いということにはならないと思うのです。

 

 

どうして僕たちは、そうした「どうだっていいこと」を重要なことだと思い込んでいるのか。

そのために苦しんでしまうのか。

 

 

それはやはり「教育」に原因があると思っています。

 

 

僕たちは幼いころから、家庭から、学校から、メディアから、「教育」され続けます。

 

 

・勉強しなくちゃいけない

・いい学校に行かなくちゃいけない

・いい仕事につかなくちゃいけない

・結婚しなくちゃいけない

 

 

などを言われ続けますね。

 

一見、正論のように思います。

 

確かに、たとえば勉強できる環境にあるのなら、それは恵まれていることだから、その恵まれている状況を享受すればいいとは思います。

 

しかし、それが「ねばならない」かとなると、話は別だと思うのです。

 

 

勉強にせよ、進学にせよ、就職にせよ、結婚にせよ。

 

 

本来は、自分の目的に合わせて「選択」する行動なはずです。

 

 

ところが多くの場合、それらを「ねばならないこと」として教育する環境が多すぎると思うのです。

 

 

 

「いや、今の学校(会社)に行く事に決めたのは、本人が選択したことだろ」

 

 

 

という人がいるかも知れません。

 

表向きには、確かにそうです。

 

 

しかし、本当に本音で選択したのかどうか、と問われたらNOである人がほとんどではないでしょうか。

 

つまり、たとえば就職の時期が迫った場合に、「就職する道」と「就職しない道」の両方を、どちらも同じだけの比重で検討したのか。

 

どちらの可能性も同じだけ考えて、その上で「就職する道」を選んだのかどうか。

「就職しない道」も同じだけ選ぶ可能性があったのかどうか。

 

 

ほとんどの場合が、「なんとなく」「そういう時期だから」「周りの目があるから」という理由で、決めているのが現状だと思います。

 

なんとなく世間体が気になるから、つまり、他者の目の集合体によって「義務」づけられている、そういう感覚が、本人の中にあるはずだと思うのです。

 

 

そして、他者の目の集合体によって心理的な義務を負わせること、それが教育であると思っています。

(教育は学校だけで行われているわけではなく、家庭、メディアも行っていると思うよ)

 

 

 

 

多分、僕たちの中には、「教育」によって、無自覚のうちに沢山の「しなくてはいけないこと」が植え付けられてしまっていると言えそうです。

 

 

 

問題なのは、無自覚のうちに植え付けられたというところだと思います。

 

 

つまり、自分で決めたわけでもないのに義務と思っている。

そこに苦しさの原因があると思っています。

 

僕たちは、自分で決めたことに関しては、あまり苦しみを感じにくい気がします

 

反対に、他人が決めたことを強要されることに関しては、苦しみを感じやすい気がします。

 

 

 

じゃあ現状の苦しみはどうすればいいのか。

 

 

 

一つ目は、「自分の中にどういう思い込みの義務があるのか」を把握する。

二つ目は、「自分でもう一度選ぶ、選び直す」

 

 

ということが大切だと思うのです。

 

 

■「紙とペン」で自分の思いを吐き出す。

 

人は同じことを何時間も何日も何ヶ月も、思い悩んだりすることがあります。

 

その理由は、そもそも人は「頭の中では考えること」が苦手だから、だと思います。

 

頭の中では、考えているようで実は、同じ発問と答えをくり返しているだけになってしまいます。

 

 

そこで、必要になるものは「紙とペン」です。

 

 

もし今、憂鬱な気持ちになっていたり、心配なことがあったり、イライラすることがあるのなら、すぐに「紙とペン」を用意することを超おススメします。

 

本来、「考える」という行為は、もっと体を使った作業のようです。

 

チラシの裏でもノートでもなんでもいいので「紙」を用意して、そこに「今思っていること」をなんでもいいから書き出します。

 

ルールは一つだけです。

 

「良い悪いの判断をしない」

 

ということです。

 

「こんなこと書いて良いのかな」とか一切考える必要はなしです。

むしろそのような場合、「こんなこと書いて良いのかな」と書きます。

 

例えば、ムカつく人間がいたとして、そいつに腹が立っている場合は、「〇〇しね」なんていうのも遠慮なく書きます。

何度でも書きたいなら10回でも20回でも書きます。

〇〇のところには、実名を書く方がいいです。

 

抵抗がある人は、紙に書くことは自分の思いに気づくことであり、本人に直接言うこととは全く別の行為であるということを認識するといいと思います。

 

 

「仕事に行きたくない」

「あいつがムカつく」

「泣きたい」

「どうして俺ばっかり」

「みんなしね」

・・・・・

 

遠慮なく書きます。

 

最初はネガティブな言葉が多くなるかも知れませんが、無理にネガティブなことを書こうとしなくてもいいです。

 

 

「良い悪いの判断をしない」

 

 

これがただ一つのルールなので、頭に浮かんだことをそのままにどんどん書き出します。

 

 

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私は、10年以上前から、思いを書き出すことが習慣になっています。

「クソノート」

デスノート」 

ジャーナリング

「モーニングノート」

など、呼び方はいろいろあります。

これによって得られるメリットは超あります(語彙)。

ぜひやりましょう!!

不思議とこの行為をするだけで、気分が晴れる場合もあります。

気づいたら問題が解決していた(というかそもそも問題ではなかったと気づく)、なんていうこともよくあります。

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この「クソノート」をやると、自分でも気づかなかった思い込みに気づくときがしばしばあります。

 

「そうか、オレはこんなことを考えてたんだ!!」

 

と、結構びっくりしすることがあります。

 

 

 

「そうか、自分がちゃんと評価されていないと思っているんだな」

「そうか、失敗することが怖いんだな」

などと自分の思いが客観視できて、

 

「自分は高い評価を得なきゃいけないと思っているんだな」

「自分は失敗しちゃいけないと思っているんだな」

などの思い込みに気づくこともあります。

 

 

自分の思いを客観視していないこと、思い込みに気付いていないこと、それが苦しみの原因になっている場合は多いです。

 

それらに気づき、客観視できれば、苦しみは半減させることもできるかもしれません。

 

 

 

■自分で選ぶ、選び直す

 

「紙とペン」で自分の思い込みに気づいたら、その次はぜひ「自分で選び直す」ことをしていこう。

 

自分で選び直すと言っても、たとえば「仕事を辞めよう」というような大きな決断のことだけではありません。

 

 

「そうか、自分は仕事を辞めたいけど怖いのか。そりゃ怖いよな。今すぐ辞めるのは怖いから、まだ続けよう。」

というように自分で行動を選べばいいと思うのです。

 

「辞めたいのに辞められない!!」

   ↓

「仕事行かなきゃ!!」

 

ではなく。

 

「辞めたいけど、怖いよね。」

   ↓

「今は怖いから仕事に行くか」

 

という感じでしょうか。

 

 

行動自体は変わっていないけど、後者のほうが自分で行動を選んでいると言えそうです。

 

そのうち、「今は仕事に行くけど、ちょっと他の道も調べてみよう」となるかもしれません。

 

(このときも「紙とペン」を使って、言葉にしていったほうがいいと思いますが、無理にこのような流れを作る必要なないです。「イヤなものはイヤなんだ!!」とばかりに本音を吐き出すことが優先です)

 

たとえ今は望む行動でなかったとしても、「自分の行動を自分で選んでいる」ということがストレスを軽減させて、自分の人生を取り戻すきっかけになると思うのです。

 

 

■自分の人生を取り戻そう

 

教員をしていると、どうしても「生徒に無駄な義務を植え付けている」という気持ちになることがありました。

 

さらには、コロナ禍における休校期間には、義務から解放されたはずの生徒がやがて「何をしていいのかわからない」という状態になりました。

 

「自分で行動を選択することに慣れていない」のではないか。

そのような人間を作っているのではないか。

そう思いました。

 

また、自分自身もそのような教育を受けるなかで、思い込みに囚われ生きてきたと思います。

 

そしてやはり、私も「どのように行動を選択すればいいのかわからない」のだということを痛感しました。

 

人は本来、「自分で選択する」生き物だと思います。

 

そこに人生の手応えがあると思う。

 

人生は必ず終わる。

もちろん優劣はないと思う。

良い悪いはない。

 

やっていきたいと思います。