大人の反抗期
僕は、40歳を過ぎて、今たぶん中年の危機ってやつだと思います。
この中年の危機って、その年齢に原因があるのではないと思う。
たぶん、潜在的に問題がずっとあって、それが年齢をきっかけにして、その問題に気づくんだと思う。
なんだか、「教員やっててももうだめだ」って思った。
で、やめた。
いやー、今はなかなか毎日一人ぼっちだし、なんとも言えない日々です。
すごく不安定さを感じます。
何をやってても、これでいいのか、っていう思いがします。
でも、それは今まで、他人の価値観に依存してたり、特に志を持ってるわけでもない仕事に依存してたりしてて、安心してただけだと思う。
本当は、この不安定な感じを、もっと早いうちに、乗り越える必要があったんじゃないかな。
そのときに、自分がどう生きるかとか、この社会において自立できる、スキルなり価値観を構築できるんじゃないだろうか。
僕は、側からみれば、まっとうな社会人としてやってきたと思う。
でも、今になって、この状態になっちゃった。
でも、こうなる問題は潜在的にずっとあったんだと思う。
ちゃんと、どう生きたいのか、考えて実行するべきだった。
それをせずに、なんか環境に安心して生きてきてしまったのは、紛れもなく自分の責任。
それを今から、やろうと思う。
そうだよな、やろう。
やるのだ。
(7つの習慣に書いてあったな。反応的な人「やらなきゃいけない」→主体的な人「やると決めた」)
もし過去に戻って、中学の時の自分でも、高校の時の自分でも、いいから伝えられるとしたら。
① 親を切り捨てよう
② 周囲の大人の言う人生設計は『依存型』
③ 人生の本当のリスク
ひとまずこれらを伝えたいかな。
① 親を切り捨てよう
私の親は、両親とも子育てに関しては無自覚だったといえる。
父は、酒に酔って上司を殴って会社を2回クビになった。
子どもは好きだったみたいだが、それ以上に自分が好きで、家庭のことは無関心だった。
母は、怒る時はヒステリックに怒鳴るか (ホント鬼だった)、不機嫌な態度で示し話が通じなくなった。
頑固で自分と違う意見を受け入れることができない。
父が父だから仕方ないけど、なんとなく「人生はやっかいなもので、何事もなく片付けるべきもの」っていう態度がいつも見てとれた。
僕に対しては、「勤め人になること」のみが人生の全てという教育方針だった。
っていうかそもそも “方針” なんて持ってなかったと思うけど。
子どもを信頼せず、「勤め人にならなければ、必ずあなたは引きこもりになる」というメッセージを常に感じてました。
父も母も基本的には優しい人で、普段は平和な家庭といえたけど、「大切なことを教わった」っていう記憶はひとつもない。
普通に無自覚な親だった。
そういう親は多いと思う。
そして、そういう親からの影響は、大きい。
特に子どもの、完全に無防備な状態では、親は全世界だ。
まぁ神だよね、神。
だから気づけないんだよね、影響を受けていること。
僕自身、この年になって、自立できていたと思っていたけど、そうではなかった。
僕の場合、影響を受けた親の価値観は、
・あなたは無力
・権威に頼れ
・危険だから自分で考えて行動するな
・人生は、やっかいな問題だ
そんな感じかな。
何かをしようとするときに、無意識にこうした考えが湧いて、暗い気持ちになったり、怖い気持ちになったりする。
とにかく、こういう影響を振り払わないまま、なんか人生に納得いかないとか、生きにくいとか、思うように生きられない、という人は多いと思う。
その場合は、絶対に、この親の影響を振り払おう。
今、僕がやっているように。
まず、自分の親が、毒親だっていうことを認識したほうがいいと思う。
そんなこと考えたこともない人は多いと思う。
考えたくない人もきっと多いと思う。
でも、一度よく考えて欲しい。
「親への感謝」とか、そういう洗脳ってまじでいらない。
別に親を責めるわけじゃなくて、自分の不要な価値観をアンインストールするためだから。
生きにくい原因は、自分の性格ではなくて、育ってきた環境(つまり親)にある。
どんな問題も、原因を正しく認識することが大事でしょ。
で、子どもの時には、『全世界』で『神』だった親が、ただのバカだったって認識するの大事。
そうすれば、自分が同じようなバカになってたってことがわかると思う。
で、もうそれはいらないなって、少しづつ心から思えてくるんじゃないだろうか。
だって、大人になって、少しでも本を読んだりすれば、「親の人生哲学のなんて貧弱なことか」と思うよ。
親を相対的なものとする。
ってことなのかな。
子どもの時絶対的なものから、相対的なものにする。
それが、親を切り離すってことだと思う。
僕は、きっと今それをしている。
正直な感想を言えば、とても心細い。
昔から親の考えかたは嫌いだった。
でも、無意識に影響を受けてた。
子どものときのまま、絶対的な存在だった。
どこかで安心感があった。
もっともっと早く切り捨てることができれば、と思う( ´Д`)y━・~~。
② 周囲の大人の言う人生設計は『依存型』
今回、仕事を辞めて、痛感したのは。
社会的に価値があるのは、勤務してた学校校であって、僕自身ではない。
っていうこと。
「社会的には」っていう前提のもとだけど。
僕自身には価値がない。
学校の中では、生徒も保護者も、僕の話に耳を傾ける。
僕の数学の授業を聞く人たちがいる。
でも、今は、僕の話を聞く人はいない。
これは大きいことだと痛感した。
今まで僕に価値があったのではなくて、勤務校に価値があった んだね。
信頼と言い換えてもいいかも。
僕自身には信頼がなく、勤務校の信頼に依っていたんだ。
つまり依存していた。
やっぱりこれは危険なことだと思った。
もちろんそれで生活していけて、納得できて幸せならそれでいいと思うけど。
きっと、僕みたいに目標を見失ってしまう人も多いはず。
そうなった時に、初めて自分自身の社会的に価値に気づく。
と思う。
学校の勉強って、資格取得の勉強だ。
高校卒業も、大学卒業も、一つの資格に過ぎない。
資格があれば生きやすくなるから、ないよりはあった方がいいと思う。
でも、『資格≠スキル』だと思う。
高卒も大卒もあったほうがいいだろうとは、思う。
でも、それってその人自身の価値が上がっているわけではないっていう自覚は大事と思う。
学生時代には、気づかなかった。
中学生のときも、高校生のときも、大学生のときも。
基本的には、学校に通っているだけで安心しているんだ。
本当は、できるだけ早い時期に、自分自身の社会的価値を、社会的信頼を、高めるような活動を、もっと真剣に考えるべきだったんだろう。
なんだか、目の前の生徒にしていることが、本人の価値を伸ばすことではなく、ただ従順にさせているだけのように感じて、何かに依存させるように育てているように感じて、やがては僕みたいに、行き詰まってしまうように感じて、教師辞めたっていうのもある。
③ 人生の本当のリスク
とにかく「失敗なんてないのだ」っていうことを、伝えたい。
全ては一つの過程に過ぎないっていうこと。
学校のマルバツ教育はやばいっすよって伝えたい。
自分のやりたいと思うことを素直にやってみるのと、やらずにいるのと、どっちの方がリスクが高いんだろう。
多くの場合、青い矢印にいくとまずいから、赤い方にしなさい、ってな感じで、本人の意向ではない道を選んだり、選ばせたりする。
でも、その場合。
やりたいと思うことをせずに、歳をとったとき、「やってみたらどうなっただろう」っていう思いを抱えたまま、歳をとってしまう。
それって、人生においてリスクのあることじゃないだろうか。
自分の人生からは絶対に逃げられない。
もちろん必ずうまくいくわけじゃないけど、自分でやりたいと思ったなら、やってみないと次に繋がらないともいえる。
上の図でいえば、一つ目の緑の矢印さえ歩かないことになっちゃう。
その先の成功が、最初に思っていたものではないかもしれないけど、確実に人生は、進んでいく。
やらないで、人生が進まないことの方こそリスクだったんだ。
↓ 2年前くらいに描いた4コマです。
今の政治を見ても、まるで「しっかりとした考えのもと」意思決定など行われていないことがよくわかる。
批判意識を持って、自分で考える。
大事なことです。