長文
42歳の今、思うこと、今までのこと、書きました。
長文ですが、よかったら読んでください。
何か少しでも、参考になれば幸いです。
<15年間教員をしていました>
私は2006年から私立の中学高等学校で、数学の教員をしていました。
バンドサークルの活動に明け暮れていた大学時代が終わり、アルバイトでやっていた塾講師の延長のような、大した志もなく教職を取り、教員になりました。
自分なりに一生懸命に仕事に取り組みました。
最初の4年間は高校生の担当でしたが、5年目に初めて中学1年生のクラス担任になりました。
ここからの数年間は、クラスが全く上手くまとまらず、苦しい毎日が続きました。
生徒との関係が全く築けず、何をしていても常にクラスの事が頭から離れませんでした。
学校行事などでも、他のクラスは難なくできることが、自分のクラスはどんなに手を尽くしても、まるで全てが裏目に出るかのように上手くいきませんでした。
クラスでも問題を起こす生徒も何人も出ました。
私自身の自己肯定感も大幅に下がり、自分を責める日々でした。
簡単な事務仕事をこなすのも精一杯で、精神安定剤を飲みながら出勤した時期もありました。
なぜ、そんなに生徒との関係が上手くいかず、クラスがまとまらないことに苦しむことになったのか、今はその原因はハッキリとわかるつもりです。
私自身が『教員としてのビジョン』というものを持っておらず、ただ「こうあるべきだろう」という借り物の価値観を生徒に押し付けようとしていただけだからです。
そしてその価値観をモノサシにして、生徒を“良い”“悪い”などと勝手に評価判断していたからです。
そのことに気づいて以来、生徒のことを(すべての他者を)「評価・判断」するのをやめ、ありのままの人として見るように努めました。
それ以降、なんだか見える景色が変わり、上手く言えませんが、生徒のことが以前よりよくわかるような気がしました。
あまり何かを教えよう、指導しようとするのではなく、上も下もない、ただありのままの人同士として関わろうとしました。
すると、かえって生徒との関係は自然なものになり、関わりを持ちやすくなった分、仕事も順調に進むようになりました。
かえって成果も出るようになりました。
<学校なんてテキトウでいい。>
それ以来、生徒と関わる際には、「計らい」を持つことをやめました。
何かこうなってほしいという狙いを、生徒に対して、人に対して、持つことをやめました。
今思えば、教師が生徒に行う教育とは、つまるところ“押し付け”に他ならないと思います。
例えば「良かれ」と思って教育を施したつもりでも、本人が望んでいないことなら、押し付けで、結局は不自然な結果しか生み出さないと思います。
教師の仕事なんて、学校の仕事なんて、その程度のもの。
そんな風に割り切るようになり、何があっても深刻に考えることをやめるようになりました。
(先にも書いたように、そうすることで返って生徒との関係も自然なものになり、仕事の成果も出やすくなったと実感しています)
学校のやっていることなんてその程度のこと、としか思えなくなりました。
<なぜ人は深刻になるのか>
教員をしていると、生徒の成績をこれ以上ないくらいに重要なものとして捉える保護者の方と、間々出会います。
あるいは生徒の中にも、成績が自分の人生(というか進路。より良いとされる進路に進む事がより良い人生に繋がるとの価値観は強く根付いており、進路と人生が、近い意味を持っているように思います。)に大きく影響を与えると考え、重要なものとして捉えている人もいます。
本当にそうなのでしょうか。
確かにある側面ではそうなのかもしれませんが、例えば私自身という実例をあげれば、確かに学校の成績は(少なくとも高校や大学の受験期には)優秀とは言えないまでも、そこそこ良く、職に就き、15年間は給料をもらいながら生きてくることはできました。
しかし後述するように、私自身はこの歳になって、人生に納得感を持てていないです。
何かもっと大事なものがあったのではないか、と思っています。
なぜこんな風に、“成績”に深刻になるのでしょうか。
(ここでは“成績”を学校の成績というより、もっと広義に捉えたいです。
社会的な成績、つまり仕事や能力や年収など、社会的な優劣を測ることができる全ての尺度という意味です。)
一言でいえば、「深刻にさせる社会がある」ということではないでしょうか。
私自身の例をみても、本当は“成績”は本人の幸せとは、我々が思うほどには関係がないものなのに、この社会にはそれを深刻に捉えるようにというメッセージが、ほとんど無意識のうちに刷り込まれていく仕組みが、ありとあらゆる所にできあがっています。
テレビCMやドラマや雑誌に登場する人物は、ほとんどの場合、「理想」とされる姿を持った男女ばかりです。
私たちは「これが優秀な姿です」というメッセージを無自覚のうちに受け取り続けます。
自分もそれに近づかなければならない、と思う。
学校も同じだと思います。
本人の考えや希望とは別に、「これが正解です」というものを教え続けています。
学校だけでなく、この社会のあらゆるものが、私たちに自分には関係のない価値観を“押し付けて”きます。
本人とは関係のない情報を与え続け、「正解」「不正解」を分離し、「損」「得」を分離し、「成功」「失敗」を分離し、「優」「劣」を分離し、「勝ち」「負け」を分離し、「幸」「不幸」を分離して植えつけられます。
それらは本人には全て関係のないものです。
にも関わらず、私たちはその自分とは関係のない基準を元に、他者と自分を比較し、一喜一憂をくり返します。
他者が皆、競争相手になってしまう。
社会が競争の場になってしまう。
「人より優れていなければいけない」と思い込み、自分の“成績”を深刻に捉えるようになってしまう。
しかし、他者とは本当に競争相手なのでしょうか。
社会とは競争の場という意味しか持っていないのでしょうか。
そもそも自分は、「勝たなければいけない」のでしょうか。
学校や社会から与えられた価値観の中で、「優秀でなければならない」のでしょうか。
そんな生き方しかできないのでしょうか。
生きる意味は、何か他にないのだろうか、と思います。
何か他に生きる基準となるものはないのでしょうか。
他人から与えられた価値観ではない、自分が本当に喜ぶ生き方ができる自分だけの価値観、そんなものを持って、自分らしく生きることができたらどんなにいいか、と思います。
<自立できなかった>
私には、反抗期がありませんでした。
性格的にあまり人と喧嘩したりしないタイプであったこともありますが、もう一つの原因は、家庭の状況もあったと思います。
我が家は、サラリーマンの父と専業主婦の母、2つ上の姉と私の4人家族でした。
よくある家庭ですが、普通とちょっと違ったのは、父親の気質でしょうか。
父は「酒を飲んだ勢いで上司を殴って会社をクビになる」という経験を、生涯で2回しています。
これに象徴されるように、何かと破天荒で、家庭を守るという意識はあまりなく、自分のやりたい事だけをする、という父親でした。
幼稚園生の時から、両親はよくケンカをしていた記憶があります。
とても怖かったことを覚えています。
また、父親は金銭感覚もおかしく、散財します。
私が中学生の時に両親は離婚しましたが、母親は家庭の安定を守る為にと、父親から家族の資産を守る為に必死でした。
私が大学生くらいになって、母はよく「この家は私一人で守った」と言っていました。
その言葉を聞く度に、なんとなく見下されている、力のない存在として扱われている、というような感覚があり、モヤモヤした気持ちになりました。
私は大学に入学して以来、一人暮らしに憧れていましたが、母親が一人になってしまうことが可哀想に思えて、言い出しませんでした。
そのまま仕事を始めても、職場となった学校も実家から通える場所だったので、家を出ることはしませんでした。
そのうちに、なんだかんだ楽であることと、なんだかもう面倒臭くなったことから、結局家を出ることはありませんでした。
勤めて稼いではいますが、自立はできていませんでした。
自分では、社会人としてある程度の年数と、ある程度の経験を経てきたので、もう自分なりの独立した考え方や価値観を構築できたと思っていました。
しかし、実際は精神的な自立はできていなかったようです。
子どもの頃から、母親に信頼されているという感覚がありませんでした。
高校や大学の受験など、社会のレールに乗っ取る行動については、応援や励ましを受けることはありました。
しかし、それ以外の自分で決めた行動(例えば音楽活動など)については、応援されない、どちらかと言えば、ケチをつけられたり批判されたりしていました。
あるいは、まるで“余計なことはしてくれるな”というかのように僕の行動が心配の種になっているようでした。
それは、まるで破天荒な父親の行動に対するのと同じように
本来であれば、自分自身の人生なのだから、親の反応がどうであれ堂々とやればいいだけのことです。
しかし実際には、母にそのように思われていることが、常に引っかかっていて、なんとなく自分の行動に自信が持てない、自分自身に自信が持てないという状態でした。
本当は、もっと「自分で決めたこと」についても応援してほしかったし、信頼して欲しかったというのが、本心でした。
結局は、40歳を過ぎた今でさえ、物事を自分で決められない、あるいは、自分で決めることに自信が持てない、というような状態だと思います。
まるで子どものように、誰かから許可を得たことでないと、誰かから承認を得たことでないと、自信を持って行動できないような状態で、生きてきました。
結果として、「本当はもっと色々と好きなように決めてやってみたかった」というような思いを持つことになってしまいました。
<真剣に人生を考えてこなかった。レールにのっているだけで、安心してた。>
学生時代は、毎日「行く場所」「する事」「会う人」が与えれます。
だからなんとなく安心してしまう。
しかし、それらはあくまで与えられたものに過ぎません。
近いうちに自分のもとを去っていきます。
また本来、自分とは関係のない「行く場所」「する事」「会う人」なので、そのまま行き着く先は、自分とは関係のない人生になってしまうのではないでしょうか。
今、私はこれまで、ただレールに乗っているだけで安心して生きてきました。
よって今までやってきた仕事も、そうして得たものです。
そのまま15年間続けてきた仕事を、辞めることを決めました。
42歳になった今、このままでいいのかという思いが強くなったからです。
結局やってきたことは、経済のために安全な道を選んできただけでした。
言えばすすんで奴隷の道を進んできたようです。
今更になって、人生のこと、「何のために生きるのか」「なぜ生きているのか」「何のためにこの人生を使いたいのか」、自分の存在する、意味、理由、必要を考えるようになったと思います。
そして初めて気づいたことは、私個人には社会的な価値も認知も何もない、社会に対して全く無力な存在であるということです。
今まで社会的に認められていたのは、私の勤めていた「学校」であって「私」ではなかった。
そんなことに今更気づきました。
私自身は社会的に全くの無力無価値な存在であり、勤務先の学校の中でしか生きていけない存在になっていた。
つまりそれが奴隷の生き方をしてきた代償だったと思います。
そして一部の人を除いて、多くの人がそのような生き方をしているのだと思います。
その結果、私のように、人生に納得感を得られず、行き詰まり、悩む人間が出てくるのではないでしょうか。
人生に自分が生きたという手応えがない、どこかに依存しないと、社会的に生きていけない、そんな状態。
<学校のおかしさ>
今更ですが、そんなことに気づいた結果、学校のやっていることにも大いに疑問を持つようになりました。
まず、「一元的な価値観の押し付けること」です。
これによる悪影響は多岐にわたると思います。
そもそも自分とは関係のない“正しさ”と“間違い”を強烈に植えつけられます。
確かに学問においては、正しい理論や推論を行うことは必要でしょう。
そして学問においては、本来、間違いというのは、より望ましい結論を得るための過程に過ぎません。
よって、間違えれば間違えるほど、その経験をフィードバックとして活用することができ、より望ましい結論に近づくことができる。
つまり、より成長することができます。
しかし、学校においてはそれが、正解でなければダメだというような、“正解偏重主義”とでもいうようなものが蔓延していると感じます。
それにより個人個人の多様な考えや価値観は押し潰されます。
そして、自分とは関係のない正解と不正解に、過度に拘るようになります。
間違いを恐れることで、多くの経験の機会を失い、成長の機会を失います。
やがて「周囲からの要望に応える」という態度だけが、望ましいものとなってしまいます。
そして、いずれ自分を見失っていくのではないでしょうか。
加えて、生徒は自分の人生とは関係のない価値観で、画一的に評価されることで、劣等感と競争意識を植えつけられることになります。
これらは、個人の幸福な人生にとっては、マイナスでしかありません。
次に、「共有する目的の存在しない集団の中で学ぶこと」です。
学校ではなぜか毎日同じ人間のいる、同じ教室の、同じ座席に座って、自分で選んだ訳でもない人間の話を聴きながら、1日の大半を過ごすことになります。
これは個人の成長や幸福のためにそうしているのではありません。
学校側が管理(支配)しやすいからです。
生徒の成長を考えたら、もっと人間関係は流動的なものにさせた方がいいのではないでしょうか。
自分自身で目的を持たせ、それに見合った人間関係を構築させる。
目的が果たされたのなら、その人間関係は解消し、また新しく更新したっていい。
自分が学びたい場所も、教師も、本来なら自分の目的に応じて選ぶべきです。
しかし実際には、管理者側の都合によって、30人前後の集団を、人数に対して見合わないほどに狭い部屋と、固定化された人間関係の中に押し込むことになります。
本来、集団というのは共通する“目的”を持っているはずです。
その目的の達成の為に、ある者はAという役割を、ある者はBという役割を、その集団に対して提供することで、相互に補完しあい目的に近づいていくということが、集団の形です。
しかし、学校のクラスという集団には、共通する目的がありません。
にもかかわらず、集団としての体を成さなければならない。
そのために、「仲のいいクラス」とか「団結力のあるクラス・学年」などという実態の伴わない、やたらと協調だけを強いるような風潮が生まれてしまう。
共有する目的がそもそもないのだから、それは単なる“なんとなく空気を読め”というような同調圧力とさほど変わらないのではないでしょうか。
大切なのは、協調よりも目的です。
議論や論理を重要視せず、なんとなくの雰囲気を重要視して意思決定をする。
独自の意見を打ち出して他人と衝突するよりも、他人との協調を重要視し独自性を発揮しない。
そんな日本人の特性を作っている原因の一端が、この学校のシステムにあるような気がしています。
確かに、協力しあえるクラスや、お互いに尊重しあえるクラスというのは、居心地もよく、成果も出やすいのは事実です。
しかし現実としてそのような集団を作り上げるには、想像以上の労力が必要となります。
共通する目的を持たない“集団”を、集団として取り繕うだけのために、それだけの労力を費やすよりも、もっと流動的な環境の中で学ぶほうが、はるかに理にかなっています。
最後に、「個人の人生とは無関係な課題を与えられ続けること」です。
学校では文部科学省から与えられた学習指導要領に則って、教育課程が決められています。
つまり、国が子どもをどう育てるか、を決めているということです。
(特に日本では教育における教科書への依存が諸外国よりも高く、その教科書は国によって検定されているため、学校においては国の意向が強く反映されていると言えそうです。)
しかし、私たちは一人一人がそれぞれ違った存在で、違った目的を人生に持っていて然るべきです。
本来であれば、「自分は何のために生きるのか」を考え、自分の目的に応じて、自分自身で課題を持つべきです。
課題は自分で決めるべきです。
学校で学ぶ国語、算数、理科、社会も、その自分自身の目的に叶うものとして学ぶべきで、まず最も重要なのは、「何のために生きるのか」という目的を持つことのはずです。
しかし、実際には、それを考えさせることはしません。
ただ、国から言われた課題を与え続けるだけです。
人生の目的を考えさせることをしません。
教師自身がそのように生きてきたのだから、仕方がないことではあります。
生徒は与えられた課題をこなすことで、安心をします。
逆に課題を与えられないと不安になるかもしれません。
(現にこのコロナ禍において、休講期間中には「することがない」と言って、途方にくれる生徒が多数であった。)
常に与えられることを望み、与えられるものに満足し、すがる。
結果、考えることができる生徒は育たず、言うことを聞く生徒だけが育つようになります。
それが本人にとって有益なのではなく、社会にとって有益なだけの奴隷を育てているに過ぎないことは明確ではないでしょうか。
確かに将来「仕事を得る」「社会に参加する」「経済的に自立する」ということは重要なことのように思います。
しかしそれが、「ただ肉体を維持するためだけに生きる」そのために自分を放棄するのだとしたら、一体何のために生きているのか、わからなくなってしまう。
お金も命も生活も、もちろん重要だと思います。
しかし、そのために自分を放棄してしまったら、一体生きる意味は何なのでしょう。
しかも、人の言うことを聞き、奴隷のように生きることは「いくらでも替えのきく人間になる」というリスクを伴います。
例えば、学校卒業などの様々な「資格」は、その人自身の価値が認められているということにはなりません。
あくまでその資格を担保する組織の価値が認められている、ということです。
社会が、その人そのものに価値を見出すことにはならないのです。
私自身が、勤務先の肩書きがなければ、誰からも見向きもされない存在であるように、です。
そのような人間として生きることは、リスクであるとさえ言えるでしょう。
自分の生きる意味を考え、自分で課題を設定して、自分だけのオリジナルの生き方をすることは、そうしたリスクを回避することになるのかもしれません。
<自分で決めてやってみて、結果をちゃんと引き受ける。そんなふうに生きてみたかった>
私自身は、人生のことをあまりよく考えずに、流されて生きてきました。
そして、多くの人がそうなのではないでしょうか。
与えられた課題をこなすことだけで、それが自分自身とは何の関係もないものであるとも気づかず、きっと奴隷の生き方という楽な道を選んできたのだと思います。
その結果、42年間を振り返ってみると、自分の人生を生きたという手応えがありません。
別にこの人生はあってもなくても良かったんじゃないか、と思えてしまいます。
親や学校や周りから与えられるアドバイスは、自分の生きたい人生とは関係がなく、「こうすれば無事である、安全である」というものがほとんどです。
そのアドバイスの基底にあるのは、生きていくことへの不安、経済面での不安、社会的地位に対する不安、などです。
だからこの世を、何事もないように、無事に生きて死んでいくというアドバイスです。
そのように生きて死んでいくとしたら、では、この世を生きるというチャンスを与えられた意味は何なのでしょうか。
私は、そうしたアドバイスに従って、生きてきたのかもしれません。
本当はもっと自分の思うように行動したかったのだろうと思います。
自分の思うように行動をして、その結果がこの世から返ってくる。
その結果を自分で受け取る、それが生きるという事なのだろうと思います。
そのことに本当は良いも悪いもないのではないでしょうか。
この世に自分をぶつけてみる、自分を試してみる、そのことが生きるということ。
それを他人の判断に委ねては、それを社会の評価に委ねては、いずれ「何のために生きてきたのか」と悩むことになるのだと思います。
だから、最終的に頼るべきは、親からの情報でなく、社会からの情報でなく、他人からの情報でなく、頼るべきものからの情報だろうと思います。
それは自分からの情報だろうと思うのです。
でも、自分の情報というものも、正直に言って難しい。
それを掴むことも人生の一部なのでしょう。
<見本となるように生きてみる>
もう学校がやっていることが、生徒のためとは思えなくなりました。
そして、もうこれ以上、言葉だけで伝えるのではなく、自分自身が理想とする生き方に進むことで、見本となるしかないと思います。
先日、学校には辞意を伝えました。
勇気が要りましたが、「奴隷で生きるより、自分で死ぬほうがいい」と自分に言い聞かせていました。
今年の4月に、大学時代の後輩がガンで亡くなりました。
まだ40歳だったと思います。
4ヶ月の娘もいたと聞きます。
どんなに無事に安全に生きたって、必ず死ぬときがきます。
そのときにただ安全に食べるために生きたって、それが一体何になるのか。
正直、先は見えないですが、とにかく“自分”として、人生を全うしたいです。