先日、教員を辞めるということを学校に伝えました。
先日、9月30日に、教員を辞めるということを、学年主任に伝えました。
特に、先が決まっているわけでもなく、今まで人生において、大きな環境の変化というものを、経験したことが少ないので、もの凄く、勇気が要りました。
しかし、これ以上、教員を続けていても、望む未来があるとは思えない。
むしろ、後悔とどん詰まりの人生があるのではないか、と思うようになりました。
学校がやっていることも、生徒のためになっているとも思えない。
私自身の人生も、納得できるものになるとも絶対に思えない。
ただ、なんとなく教員になって、生きるためだけに生きるような日々。
それなら、僕として生まれてきた意味は何なのか。
納得いかない人生を選んだ自分と、生徒の姿が重なってしまう。
やがて彼らも同じように思うのではないか。
なら、彼らが彼らとして生まれてきた意味は?
専門でもない部活顧問も、本当にきつい。
専門でないがゆえに、傾けなければいけない労力も多すぎるし、成果は出ない。
僕である必要が全くない。
むしろ僕でないほうがいい仕事に、これほど労力を傾ける意味は?
辞めることは先が見えないし、怖いし、嫌だと思う。
でも、続けることはそれ以上に嫌だ。
きっと、空っぽの人生に対する、とてつもない後悔に押しつぶされると思う。
辞めることを伝えるときには、
『奴隷で生きるより、自分で死ね』
と言い聞かせていました。
どうせ、死ぬのだ。
うまくいくとか、どうかとか、そんなことはもういい。
自分になるか、どうか。
自分として死んでいく。
自分の人生を掴む。