絶対に勝てないゲーム
(初めて「アジェンダ」に出会ったのは、もう4年も前のこと。ヨコモジをいち早く取り入れる先輩がいたんです。もちろん尊敬できる先輩でした。)
(お台場にはホントに「ダイバーシティ」っていうのがあるんだね。しらんかった。)
(あと昨今のヨコモジ文化なんなんだよ!!ニッポン人だろ、目で話したまえ!!)
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なんか、あれだよな。
ずっと、『他者(世界)から自分の価値を認めてもらいたい』と思っているよな。
物心ついた時から、ずっとそう思っている。
小学校高学年くらいからかな?
中学生の時くらいからかな?
→「自分の価値を認めてもらうために」他者(世界)が存在している。
→ 他者(世界)は「俺の価値を認めるために」存在している。
→ 他者(世界)が俺の価値を認めてくれないと、自分が無価値な存在になってしまう。
→ 他者(世界)が負けてくれることで、自分が勝てる。
→ 他者(世界)が俺より劣ってくれないと、自分には価値がない。
僕たちが「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界は。
なぜか知らないけど、「自分」というものがあった。
で、必然的に「自分以外」があった。
つまり「他者」があった。
なんだか、「他者」って「世界」そのもののようで。
「自分」と「世界」があった。
で、なぜか知らないけど。
だいたい、いつも「自分の価値を確認したがってた」。
その確認の方法が。
「世界(他者)よりも、自分の方がすごい」と思えること。
っていう気がする。
「上と下」で考えていて。
ある一定よりは「上」にいたい。
「上」に行けるためには、誰かに「下」に行ってもらう必要がある。
できるだけ「上」なら、他者(世界)から憧れてもらえる。
他者(世界)から羨ましがってもらえる。
他者(世界)から必要とされる。
そんなんで、ようやく自分に価値があると思えて、安心できる。
それが叶わなければ、自分も好きになれないし、世界も好きになれない。
なんでだろう?
「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界には。
「自分」と「他者(世界)」があって。
とことん他者を利用することでしか、自分の価値を感じられない。
自分を好きになれない。
そういう人って、きっとすごく多い。
(含オレ)
なんで?
「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界では。
なに、そういう設定なの?
何でそういう設定にしたの?
で、このゲームは。
まぁ、はっきり言って勝てない。
みたい。
ごくたまに勝った時もあったりした気もするけど。
最終的には必ず負ける。
みたい。
そんなゲームを、ずっと続けてきた(続けている)。
みたい。
だいたい小学校5、6年くらいの時にスタートするかな。
中学校の時も。
高校の時も。
大学の時も。
教員の時も。
バンドをやってた時も。
授業をしてた時も。
絵を描いてる時も。
電車に乗ってる時も。
スタバにいる時も。
半ニートで塾講してた時も。
で。
気づいたら44歳で、なんか「あれ?」ってなって。
「あれ、オレこの人生で何かした?」ってなって。
「なんもしてなくね?」ってなって。
「なんか意味あることした?」ってなって。
「なにこれ?」ってなっちった。
えへ。
勝てない。
勝てない。
勝てない。
勝てない。
勝てない。
からの。
価値ない。
価値ない。
価値ない。
価値ない。
価値ない。
からの。
年取るとさらに価値ない。
年取るとさらに価値ない。
年取るとさらに価値ない。
年取るとさらに価値ない。
年取るとさらに価値ない。
からの。
じゃあこれからますます価値ないじゃん。
じゃあこれからますます価値ないじゃん。
じゃあこれからますます価値ないじゃん。
じゃあこれからますます価値ないじゃん。
じゃあこれからますます価値ないじゃん。
からの。
44年意味なかったし。
44年意味なかったし。
44年意味なかったし。
44年意味なかったし。
44年意味なかったし。
からの。
もうだめじゃん。
もうだめじゃん。
もうだめじゃん。
もうだめじゃん。
もうだめじゃん。
からの。
もう自分を好きになれない!!
ずっと好きになれたことがない!!
この世も嫌いなんじゃ!!
ってさ。
そもそもの原因は。
そんなゲームをずっとしていたから。
だと思う。
「もう無理じゃ。だって勝てないし。これから先はさらに勝てない。」
「もういやじゃ。オイラだってそれなりに頑張ってきたのに。どうして自分を好きになれない?どうしてこの世を好きになれない?」
もうやめちゃおう。
こんなゲーム。
だってもう絶対に勝てないもん。
だから、やめちゃおう。
もういいや。
勝てねーし。
自分が勝つことはいーや。
そんなことよりも、何かすることがあるような気がする。
そんなことよりも、何かすることがあったような気がする。
「絶対に勝てないゲーム」をするために必要なものは、「評価」「判断」。
人にも物事にも、「良い」「悪い」、「正しい」「間違い」、「快」「不快」、「優」「劣」っていう評価や判断を、レッテルを貼ること。
もしそれがなければ、他者に負けて欲しいとも、自分が優れていたいとも、思えないから、「絶対に勝てないゲーム」をすることができなくなってしまう。
「評価」も「判断」も、僕らはなぜかどうしてもやってしまう。
だから「絶対に勝てないゲーム」をし続けていられる。
もちろん「評価」も「判断」もできなかったら、生物として生きていけない。
だって、身に迫る危険も、命を守るための行動も、わからないから。
だから「評価」も「判断」も無くなることはない。
子どもの頃からずっと、なにをするにも「オレのこと、すごいと思ってくれ」というのが動機で。
気づかないうちに、絶対に勝てないゲームをし続けて。
たまに、勝ったように思うときには、有頂天になったりして。
たいていの場合は、負けていて、生きてる意味ねーとかなったりして。
時間が経つほど、どんどん勝てなくなっていって。
自分の価値も、世界の価値もわからなくなって。
どうせ負けるなら、なにをしても意味ないってなって。
まぁ、見失っちゃう。
あれぇ、何かすることがあったと思うのになぁ。
こういうことじゃなくて、何かすることがあったはず。
「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界には。
なぜか知らないけど、「自分」と「他者(世界)」っていうのが設定されてた。
そこで、ずっと他人が負けてくれることで自分が勝てる、絶対に勝てないゲームをし続けて。
時間がたった。
ずいぶん時間がたった。
ほんとうは何か、そういう感じじゃなくて、することがあったと思うけど。
そういうのに、早く気づく人もいるんだろうと思う。
中学生くらいの時とか。
「事前に何の相談もなく連れてこられた」この世界には。
なぜか知らないけど、「自分」と「他者」っていう設定があって。
あとなぜか知らないけど、このくらいの大きさの肉体が一つだけ与えられてて。
一定の時間だけ動かせるようになってて。
なぜか「評価」と「判断」があって。
時間がきたら、終わりで。
なんか知らないけど、もろもろそういう設定になってて。
そういうゲームをしてても、なんかもうダメそうだし。
なんかすることがあると思うから。
やめちゃおう。
評価して判断して。
時間がきたら終わり。
もうそういうのいいです。
だから。
やめちゃうんだ。
何かすることがあると思うし。
そういう意味では、僕はまだあきらめないよ。
「未成熟な者の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。
これに反して、成熟した者の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。」
↑ 言ってみたかっただけ。
↑ 成熟した者。
↑ 成熟した本