教員やめて2ヶ月になった。その2
教員辞めて、2ヶ月になりました。
ほんとう早いな。
やっぱり、教員って大変な仕事で、今辛い思いをされていて苦しんでいる人も沢山おられるようですね。
僕が教師を辞めた理由は、仕事がきつかったからではないです。
教師っていう仕事自体に疑問をもってしまったから。
でも、僕もきつい時期がありました。
ほとんど休みも取れず、専門でもない部活指導に多くの時間をとられ・・・・・・。
だから、今きつい思いをしている人の気持ちは、よくわかるつもりです。
ぼくが良かったのは、体や精神を壊す前に、『外してください』と言えたこと。
だって、本当に休める日なんて、1ヶ月に1日2日あればラッキーって感じだったと思う。
正月も2日から練習試合とかさ、どうなのよ。
専門でやっている人ならまだしも。
人生の貴重な時間を、浪費しているようで、精神的にも肉体的にもつらかった。
で、実際に、あの膨大な時間は、無駄だったと思う。
無駄っていう言葉は強すぎるかもしれないです。
それに「無駄だった」なんて断じてしまうのは、生徒に対して失礼な気もします。
でも、少なくとも、人生のコアタイムの使い方としては、あまり有益とは言い難い使い方であったとは思います。
なんていうか。
確かに、生徒の利益のためにできるだけのことをするべき、というのはわかる。
だからと言って、なんでも犠牲にしていいというわけじゃない、絶対に。
専門でもない素人の先生が、生徒と一緒にがんばってくれると、ある種の高揚感や連帯感みたいなものが生まれるような気もする。
(日本には、そういうマンガやアニメが多い気がするが・・・・)
でも、費やしたあの時間は、今のぼくを救う資産には、まずなっていない。
確かにぼくは、誠実にやっていた。
練習場所にも、できるだけいるようにした。
だから、先輩の顧問の先生(この人自体はとても素晴らしい先生)にも、ほんとうに良くしてもらったし、認めてくれた。
さらに生徒って、大人を見るときに「誠実な奴か」「打算的な奴か」っていうの、とても敏感に見分けるよね。
だから、ぼくは部員の生徒からも、ある程度は慕われていたとは思う。
誠実であったこと自体に、後悔はないです。
でも、人生って、仕事でも勉強でも、「その結果がいずれ後々の自分自身も救っていく」っていうことが大事と思うのね。
だからといって、自分の得になることばかりをするっていうのは違うと思うんだけど。
相手の役に立とうと誠実に取り組み、その結果の積み重ねが、やがて自分自身の役に立つっていうか。
そういう視点は、必要だと思う。
で、あのとき費やした時間は、今のぼくを救ってはくれていない。
これは厳然たる事実。
生徒に誠実であるのも大事だが、自分の人生に誠実に向き合うっていうことももっと大事だ。
当時のぼくはそれをしなかった。
少しでも、家にいられる自由な時間があると、お酒を飲んで・・・・。
「ゲームセンターCX」か「たけしのコマ大数学科」のDVDをみてた。
(どっちもおもしろいけどね。)
で、何が言いたいんだっけ?
つまり、誠実にやってて苦しんでいる先生の方がもし、ご覧になっていたら。
ちょっとでも参考になってくれるかな、とか思ったのかな。
部活に限らず、もう限界と思うなら、「外してもらう」って大事と思うけどね。
少しでも、視点を変えられる助けになれたら、嬉しいです。
で、前回の続きを書きたいと思います。
特に、何をすると決めたわけでもなく、教員をやめて2ヶ月経ちました。
今思うことを書かせてください。
何かの参考に(何の?)なれば、と思います。
あと自分自身の記録としても書いておきたいです。
正直ポジティブな内容ではないと思うけど、ぼく自身は、この状況を絶対に乗り越えるつもりです。
そのときには、今までのような、ただレールに乗って言われたことをやってきただけの人生ではなくて、 もっと積極的に納得できるような生き方をつかんでいるだろうと思う。
ぼくを含め多くの人が、納得のいくような生き方ってできているのだろうか。
まるで「何かを人質にでも取られている」かのような感覚で、生きてきたと思う。
そんなふうに思う人、多いんじゃないだろうか。
僕は、生徒も同じようにさせているような気がして、やめた。
必ず納得のいくように、今からでも、しようと思います。
じゃあ、無職2ヶ月目の、感じーーーー。
あへへへ。
④ ネット上の成功者と比較してしまう。
原因は、リアルで関わる人がいないからだと思います。
少しでも人の気配を感じたくて、ネットを見てしまう。
僕は、自分で納得のいく人生を構築せずに、ここまできてしまったと思っている。
ネット上には、ずっと年下で、自分らしい生き方を構築している人で、溢れている。
少なくともそう見えてしまう。
自然と、自分の43年間の人生の、無意味さ、無自覚さ、アホさ、を悔やんでしまう。
仕事やめてから、ずっとこの悪循環は、続いているな。
でも段々、慣れてきた気もする。
つまり、現状を受け入れることができつつあるというか。
一生懸命やってきたのにこんなかよ!!って今でも思う。
でも、少しづつ、受け入れてきていると思う。
本当は、10年早く、20年早く、気付きたかった。
事実、気づく人たちは沢山いる。
僕は、今ようやくだった、っていうこと。
正直、残念に思うけど、でも、ここからやるしかないよね。
納得のいく生き方、夢中になれる仕事、人との関わり、そういうの、今からやろうと思います。
もう現状はここ。
⑤「認められたい欲求」で動いてきただけだった。
物心ついた頃から、何かを始めるときに、いつでも「認められたい欲求」が動機だったと思います。
その物事そのものに、もっとフォーカスできればよかった。
もっと集中できればよかった。
そういう考えをもっていればよかった。
なぜか。
「認められたい欲求」を動機に、物事に取り組むと、その結果によって自分の存在価値が左右されてしまうから。
「認められたい欲求」をもとに物事に取り組むと・・・・・。
うまくいく
→ 自分を他人より優れていると感じる・他人を劣っていると感じる
うまくいかない
→ 自分が価値のない存在に感じる・他人を羨み嫉妬する
これだと、その物事自体に集中していないことになる。
失敗も過剰に恐れて、挑戦もできなくなる。
つまり成長の機会も失う。
継続もむずかしくなってしまう。
今までの僕自身を考えると、何をするにしても、本当にそのこと自体に集中したことがあるのだろうか。
失敗も平然と受け入れていたろうか。
人より成果が出せなかったときに、自分の価値が脅かされはしなかったろうか。
人の目を気にせず、創造的に取り組めたろうか。
つまり夢中になったことがあったろうか。
「人からどう見えるか」よりも、「自分がこう思う」ということをしっかりと優先するべきだった。
と思う。
そう考えると、なかなかそういう機会がなかったのかなって思う。
なぜ「認められたい欲求」を動機にしてしまうのか。
多分、育ってきた環境だと思う。
親から認められて育っているかどうか。
それは大事なことである気がする。
親が、自立している。
親が、人生を楽しんでいる。
親が、子どもの失敗する権利を奪わない。
親が、子どもの話を批判せずに聞ける。
そういう環境が大事だと思う。
そうでない場合、子どもは成人後、きっと「認められたい欲求」が行動の動機になって、いろいろと生きにくくなってしまうと思う。
だから子どもは、精神的に『親を切り捨てる』必要がある。
とにかくそう。
僕自身、ずっと行動の動機が『認められたい欲求』だったと思う。
だから「人生がつまんない」ってなっっちゃったんだろうと思うよ。
なんかそんなことにも今回気づけたがします。
何年も前から、うすうす気づいていたけど、今回はっきりとした感じがします。
はい。
⑥どうしようもないことは、ある。
これは今だから思ったということではないけれども。
「どうしようもないことは、ある」。
そう思っています。
努力とかなんとか、そういうものが一切届かないくらいに、どうしようもないものは、ある。
そう思うようになった理由は、『フォーカルジストニア』です。
僕は、ギター演奏やパソコン操作をするときに、左手の中指が意に反して曲がって硬直してしまいます。
これを戻そうとすると、ものすごい力が必要だったり、逆に他の指が反動で伸びたりしてしまう。
このような指の不随意運動のことを『フォーカルジストニア』といいます。
楽器を演奏する人がなる難治な症状です。
治療法はおそらく確立されていないと思います。
僕は、生まれつきのフォーカルジストニアでした。
生まれつきそうだったせいで、自覚するのに時間がかかりました。
高校1年からギターを始めたのは、「何か武器が欲しかったから」。
それこそ、ポジションを取ることが大事だと思っていました。
初めは、認められたい欲求でやっていた気がしますが、そのうち『バンドで音を合わせるってこんなに楽しいのか』って感じるようになっていきました。
大学のときにはもうずっとバンド活動ばかり。
バンドサークルの活動と、オリジナルバンドの活動に明け暮れました。
そのうち、周りのギタリストの指と、自分の指の動きとの違いに気づくようになりました。
それまでも「なかなかオレうまくならないな」って思ってました。
練習だってやっているのに。
曲がろうとする中指を、無理に伸ばそうとするから、少し練習しただけで、左の二頭筋はすぐにパンパンになってました。
でもこれがフォーカルジストニアっていう症状だなんて気づきもしなかった。
だって、生まれた時からそうだったんだから。
多くの場合、最初は正常だった指が、練習していくうちにフォーカルジストニアを発症してしまうそうです。
だから、そのときに気づく。
でも、僕は生まれつきでした。
だから、なかなか気づかなかった。
自分の努力不足だとずっと思ってた。
今でも、「この指が正常で、楽器演奏ができたらどんなにいいだろう」って思います。
音楽は、それも楽器演奏は人生を豊かにする。
これは絶対そうだと思います。
もしこの指が正常で、練習したらその分ちゃんと上達を実感できていたら、今でも楽器演奏を楽しめていたら・・・・・・。
僕だって『やればできる』と思えたかもしれません。
何か今とは違う、自信をもてていたかもしれないって、正直思います。
意外と、このフォーカルジストニアの件が、今の僕に与えている影響は小さくないのかもしれないです。
だから、僕は『この世には、どうにもならないことは、ある』そう思うようになりました。
それに、それは真実だとも思っています。
決して、ネガティブな意味でもないと思う。
むしろ、ネガティブもポジティブもない、ただのそのまま。
そう思います。
で、なんの話だっけ?
とにかくそう思います。
そんな中で、とにかく。
自分の生き方をつかもうと思っている。
その姿をもし、示すことができたら、それは有益なことではないでしょうか。
要はさ、夢中になりたいんだよ、夢中に。
負けたくないのさ、この搾取だらけの世界に。
人質を取り返したいのさ。
そうでしょ。
40過ぎても50過ぎても、そういう生き方を探すって、いいことじゃんか。
そう思います。
ありがとうございます。