江頭さんの復帰をお待ちしています。
↑ 江頭2:50さんが療養のため、現在活動を休止しています。
復帰したら、このイラストを送らせてもらおうと思って作成しました。
顔、むずーーーーーーーい!!!!
似せるのむずい!!
今のところコレが限界。
江頭さんの顔を描こうとしても、ただの気持ちわるいおっさんの顔になっちゃう。
↓このラインスタンプ描いた人、まじですごい!!
すごい似てるし、エガちゃんの「かわいさ」もちゃんと表現されている。
ネット上にあるイラストを調べたけど、 このイラストが一番「似てて」「かわいかった」。
誰が描いてるんだろう?
どうやって描いてるんだろう?
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もう埒があかないので、旅にでも出ちゃおうか。
とか思ってます。
とりあえず、帽子とでかいリュックをポチってみた。
歯も欠けている部分があるので、歯医者を予約してみました。
せっかくの仕事をしていないこの期間。
むしろチャンス なのかもしれません。
ちょっとこの2ヶ月は、悶々と過ごした。
どうなるかわからないけど。
ある意味、チャンスなのかもしれません。
ついつい守りの姿勢になってしまうから。
攻めを意識すること、大事なのかもしれません。
今日も一日、ほんとうにお疲れ様でした。
いつも、ありがとうございます。
ぼくも、がんばりたいと思います。
教員やめて2ヶ月になった。その2
教員辞めて、2ヶ月になりました。
ほんとう早いな。
やっぱり、教員って大変な仕事で、今辛い思いをされていて苦しんでいる人も沢山おられるようですね。
僕が教師を辞めた理由は、仕事がきつかったからではないです。
教師っていう仕事自体に疑問をもってしまったから。
でも、僕もきつい時期がありました。
ほとんど休みも取れず、専門でもない部活指導に多くの時間をとられ・・・・・・。
だから、今きつい思いをしている人の気持ちは、よくわかるつもりです。
ぼくが良かったのは、体や精神を壊す前に、『外してください』と言えたこと。
だって、本当に休める日なんて、1ヶ月に1日2日あればラッキーって感じだったと思う。
正月も2日から練習試合とかさ、どうなのよ。
専門でやっている人ならまだしも。
人生の貴重な時間を、浪費しているようで、精神的にも肉体的にもつらかった。
で、実際に、あの膨大な時間は、無駄だったと思う。
無駄っていう言葉は強すぎるかもしれないです。
それに「無駄だった」なんて断じてしまうのは、生徒に対して失礼な気もします。
でも、少なくとも、人生のコアタイムの使い方としては、あまり有益とは言い難い使い方であったとは思います。
なんていうか。
確かに、生徒の利益のためにできるだけのことをするべき、というのはわかる。
だからと言って、なんでも犠牲にしていいというわけじゃない、絶対に。
専門でもない素人の先生が、生徒と一緒にがんばってくれると、ある種の高揚感や連帯感みたいなものが生まれるような気もする。
(日本には、そういうマンガやアニメが多い気がするが・・・・)
でも、費やしたあの時間は、今のぼくを救う資産には、まずなっていない。
確かにぼくは、誠実にやっていた。
練習場所にも、できるだけいるようにした。
だから、先輩の顧問の先生(この人自体はとても素晴らしい先生)にも、ほんとうに良くしてもらったし、認めてくれた。
さらに生徒って、大人を見るときに「誠実な奴か」「打算的な奴か」っていうの、とても敏感に見分けるよね。
だから、ぼくは部員の生徒からも、ある程度は慕われていたとは思う。
誠実であったこと自体に、後悔はないです。
でも、人生って、仕事でも勉強でも、「その結果がいずれ後々の自分自身も救っていく」っていうことが大事と思うのね。
だからといって、自分の得になることばかりをするっていうのは違うと思うんだけど。
相手の役に立とうと誠実に取り組み、その結果の積み重ねが、やがて自分自身の役に立つっていうか。
そういう視点は、必要だと思う。
で、あのとき費やした時間は、今のぼくを救ってはくれていない。
これは厳然たる事実。
生徒に誠実であるのも大事だが、自分の人生に誠実に向き合うっていうことももっと大事だ。
当時のぼくはそれをしなかった。
少しでも、家にいられる自由な時間があると、お酒を飲んで・・・・。
「ゲームセンターCX」か「たけしのコマ大数学科」のDVDをみてた。
(どっちもおもしろいけどね。)
で、何が言いたいんだっけ?
つまり、誠実にやってて苦しんでいる先生の方がもし、ご覧になっていたら。
ちょっとでも参考になってくれるかな、とか思ったのかな。
部活に限らず、もう限界と思うなら、「外してもらう」って大事と思うけどね。
少しでも、視点を変えられる助けになれたら、嬉しいです。
で、前回の続きを書きたいと思います。
特に、何をすると決めたわけでもなく、教員をやめて2ヶ月経ちました。
今思うことを書かせてください。
何かの参考に(何の?)なれば、と思います。
あと自分自身の記録としても書いておきたいです。
正直ポジティブな内容ではないと思うけど、ぼく自身は、この状況を絶対に乗り越えるつもりです。
そのときには、今までのような、ただレールに乗って言われたことをやってきただけの人生ではなくて、 もっと積極的に納得できるような生き方をつかんでいるだろうと思う。
ぼくを含め多くの人が、納得のいくような生き方ってできているのだろうか。
まるで「何かを人質にでも取られている」かのような感覚で、生きてきたと思う。
そんなふうに思う人、多いんじゃないだろうか。
僕は、生徒も同じようにさせているような気がして、やめた。
必ず納得のいくように、今からでも、しようと思います。
じゃあ、無職2ヶ月目の、感じーーーー。
あへへへ。
④ ネット上の成功者と比較してしまう。
原因は、リアルで関わる人がいないからだと思います。
少しでも人の気配を感じたくて、ネットを見てしまう。
僕は、自分で納得のいく人生を構築せずに、ここまできてしまったと思っている。
ネット上には、ずっと年下で、自分らしい生き方を構築している人で、溢れている。
少なくともそう見えてしまう。
自然と、自分の43年間の人生の、無意味さ、無自覚さ、アホさ、を悔やんでしまう。
仕事やめてから、ずっとこの悪循環は、続いているな。
でも段々、慣れてきた気もする。
つまり、現状を受け入れることができつつあるというか。
一生懸命やってきたのにこんなかよ!!って今でも思う。
でも、少しづつ、受け入れてきていると思う。
本当は、10年早く、20年早く、気付きたかった。
事実、気づく人たちは沢山いる。
僕は、今ようやくだった、っていうこと。
正直、残念に思うけど、でも、ここからやるしかないよね。
納得のいく生き方、夢中になれる仕事、人との関わり、そういうの、今からやろうと思います。
もう現状はここ。
⑤「認められたい欲求」で動いてきただけだった。
物心ついた頃から、何かを始めるときに、いつでも「認められたい欲求」が動機だったと思います。
その物事そのものに、もっとフォーカスできればよかった。
もっと集中できればよかった。
そういう考えをもっていればよかった。
なぜか。
「認められたい欲求」を動機に、物事に取り組むと、その結果によって自分の存在価値が左右されてしまうから。
「認められたい欲求」をもとに物事に取り組むと・・・・・。
うまくいく
→ 自分を他人より優れていると感じる・他人を劣っていると感じる
うまくいかない
→ 自分が価値のない存在に感じる・他人を羨み嫉妬する
これだと、その物事自体に集中していないことになる。
失敗も過剰に恐れて、挑戦もできなくなる。
つまり成長の機会も失う。
継続もむずかしくなってしまう。
今までの僕自身を考えると、何をするにしても、本当にそのこと自体に集中したことがあるのだろうか。
失敗も平然と受け入れていたろうか。
人より成果が出せなかったときに、自分の価値が脅かされはしなかったろうか。
人の目を気にせず、創造的に取り組めたろうか。
つまり夢中になったことがあったろうか。
「人からどう見えるか」よりも、「自分がこう思う」ということをしっかりと優先するべきだった。
と思う。
そう考えると、なかなかそういう機会がなかったのかなって思う。
なぜ「認められたい欲求」を動機にしてしまうのか。
多分、育ってきた環境だと思う。
親から認められて育っているかどうか。
それは大事なことである気がする。
親が、自立している。
親が、人生を楽しんでいる。
親が、子どもの失敗する権利を奪わない。
親が、子どもの話を批判せずに聞ける。
そういう環境が大事だと思う。
そうでない場合、子どもは成人後、きっと「認められたい欲求」が行動の動機になって、いろいろと生きにくくなってしまうと思う。
だから子どもは、精神的に『親を切り捨てる』必要がある。
とにかくそう。
僕自身、ずっと行動の動機が『認められたい欲求』だったと思う。
だから「人生がつまんない」ってなっっちゃったんだろうと思うよ。
なんかそんなことにも今回気づけたがします。
何年も前から、うすうす気づいていたけど、今回はっきりとした感じがします。
はい。
⑥どうしようもないことは、ある。
これは今だから思ったということではないけれども。
「どうしようもないことは、ある」。
そう思っています。
努力とかなんとか、そういうものが一切届かないくらいに、どうしようもないものは、ある。
そう思うようになった理由は、『フォーカルジストニア』です。
僕は、ギター演奏やパソコン操作をするときに、左手の中指が意に反して曲がって硬直してしまいます。
これを戻そうとすると、ものすごい力が必要だったり、逆に他の指が反動で伸びたりしてしまう。
このような指の不随意運動のことを『フォーカルジストニア』といいます。
楽器を演奏する人がなる難治な症状です。
治療法はおそらく確立されていないと思います。
僕は、生まれつきのフォーカルジストニアでした。
生まれつきそうだったせいで、自覚するのに時間がかかりました。
高校1年からギターを始めたのは、「何か武器が欲しかったから」。
それこそ、ポジションを取ることが大事だと思っていました。
初めは、認められたい欲求でやっていた気がしますが、そのうち『バンドで音を合わせるってこんなに楽しいのか』って感じるようになっていきました。
大学のときにはもうずっとバンド活動ばかり。
バンドサークルの活動と、オリジナルバンドの活動に明け暮れました。
そのうち、周りのギタリストの指と、自分の指の動きとの違いに気づくようになりました。
それまでも「なかなかオレうまくならないな」って思ってました。
練習だってやっているのに。
曲がろうとする中指を、無理に伸ばそうとするから、少し練習しただけで、左の二頭筋はすぐにパンパンになってました。
でもこれがフォーカルジストニアっていう症状だなんて気づきもしなかった。
だって、生まれた時からそうだったんだから。
多くの場合、最初は正常だった指が、練習していくうちにフォーカルジストニアを発症してしまうそうです。
だから、そのときに気づく。
でも、僕は生まれつきでした。
だから、なかなか気づかなかった。
自分の努力不足だとずっと思ってた。
今でも、「この指が正常で、楽器演奏ができたらどんなにいいだろう」って思います。
音楽は、それも楽器演奏は人生を豊かにする。
これは絶対そうだと思います。
もしこの指が正常で、練習したらその分ちゃんと上達を実感できていたら、今でも楽器演奏を楽しめていたら・・・・・・。
僕だって『やればできる』と思えたかもしれません。
何か今とは違う、自信をもてていたかもしれないって、正直思います。
意外と、このフォーカルジストニアの件が、今の僕に与えている影響は小さくないのかもしれないです。
だから、僕は『この世には、どうにもならないことは、ある』そう思うようになりました。
それに、それは真実だとも思っています。
決して、ネガティブな意味でもないと思う。
むしろ、ネガティブもポジティブもない、ただのそのまま。
そう思います。
で、なんの話だっけ?
とにかくそう思います。
そんな中で、とにかく。
自分の生き方をつかもうと思っている。
その姿をもし、示すことができたら、それは有益なことではないでしょうか。
要はさ、夢中になりたいんだよ、夢中に。
負けたくないのさ、この搾取だらけの世界に。
人質を取り返したいのさ。
そうでしょ。
40過ぎても50過ぎても、そういう生き方を探すって、いいことじゃんか。
そう思います。
ありがとうございます。
教員やめて2ヶ月になった。その1
教師を辞めて、2ヶ月がたちました。
あっと言う間です。
でも、仕事してた頃も2ヶ月なんて、あっという間でした。
今週は、かなりだらけた気がします。
無職になった直後の緊張感が、途切れた気がします。
ちょっと今の心境とかをダラダラ書かせてください。
なんせ話し相手もいないので。
もし、教師辞めたいとか、仕事辞めたいとか、あるいはもう辞めたとか、そういう人がおりましたら、「あぁ、2ヶ月くらいたつとこんな感じなのか」みたいな感じで参考に(何の?)してくだされば、まだこの駄文にも意味が与えられるかと思います。
ちなみに僕自身は、教員を辞めたことを1ミリも後悔していません。
逆に、今も続けていたら、そっちの方が後悔していたと思います。
今は苦しいですが、きっとなんとかなると信じたいです。
そして、あわよくば、僕と同じように悩んでいた人が「なんだ、なんとかなるじゃん。」とか思えてくれたら嬉しい。
なぜなら僕自身が、今まで、教師として苦しかった時に、そういう人たちに救われたからです。
一度も会ったこともない人たちに、ネットを通じて救われた。
なんとかなるかもしれないと思えた。
今見ている世界が全てではない、と思えた。
僕は、もう43だし、遅いかもしれないけど。
でも、僕も僕を救ってくれた人たちのようになってみたい。
そして、人生ってもっとやりようがあるよって、言えるようになりたい。
できれば、今まで出会った生徒たちのような、若い人たちに向けても、そんなことを伝えたい。
学校で教師が伝えていることなんて、嘘だ。
ごめんなさい、僕は正直にそう思います。
ただ知識を学んだ先生。
ただシステムにうまくのった先生。
そんな人たちの言う言葉に、本当に人を生かす力があるのか。
僕は、そうは思えない。
だって、先生はうまくいったんでしょ。
うまくいった人でしょ。
自分の力で何かを乗り越えたの?
教科書に書いてあることを、その通りにできたって言うだけでしょ。
それで生徒に何を教えることができるの?
あ、ちなみに今お酒を飲んでます。
普段はできるだけ飲まないようにしてますが、今は。
ちょっとさみしいし、辛いので・・・・・。
決して、現職の先生をディスりたいのではないです。
ごめんなさい。
今までの僕の生き方に愕然としているというか。
とにかく、僕は、教科書に書いてあることを伝えるのではなくて。
なんか、見本になりたいとか思っちゃったんだよね。
見本ていうのは、こんな僕でもこうなったよ、っていう意味の。
僕は、江頭2:50が好きです。
彼の動画を見ると元気が出るし、ときに涙も出ます。
でも例えばさ。
そんな人って、星○○さんとかに共感できるかな?
星○○さんに、何か言ってもらえても「そりゃーお前はそうだろうよ」って思っちゃう。
全てを手に入れられるあなたには、見えない世界があるんだよ、って思っちゃう。
あれ、何の話だっけ?
すみません。
まぁいいや。
今思うことをダラダラ書かせてください。
なにせ話相手もいないので。
カンケーないけど選挙行こうぜ!!
①このままじゃ埒があかない!!
・・・・ということに気づき始めました。_:(´ཀ`」 ∠):
毎日、絵を描こうとは思っていました。
うまくなりたいし、何か武器がほしいとおもうから。
イラスト描くの好きだし。
しかしすごく時間がかかっちゃう。
毎日スタバ行ったり、ドトール行ったり。
ブログも書いてみてるけど。
正直言ってこのままじゃどうにもならないってことがよく分かりました。
でも記録として続けていきたい。
とにかくこのままじゃ埒があかないということが、2ヶ月が経ってわかりました。
どうしたらいいのか。
1ミリでも「やってみようかな」って思うことをやってみようか。
旅にでも出てみようかなと、考えてます。
歯医者行こう。
②抜け出せない孤独を知った。
今日も明日も明後日も、会う人もなくて、することもないっていうこと。
夜寝るときに、明日が始まるのがこわい。
だって会う人もいないし、誰も僕に何も期待していない。
誰にも期待されないっていうと気楽でいいように聞こえちゃうけど、正確にいうと。
「僕の行為の受け取り手がいない」っていうこと。
そんな日が、今日も明日も明後日も続く。
一日の会話は、スタバの店員さんに言う『ショートサイズのホットコーヒーお願いします』 だけという。
すごく不安になる。
今まで知らなかった嫌な感覚が、終始ある感じです。
でも、知れてよかった。
と思う。
一人暮らしの大学生が寂しいっていうのとは、全く違うと思う。
未来も見えない感じ。
いつ抜け出せるのか、わからない感じ。
でも、本当に知れて良かったと思っています。
今これを解決せずに、定年まで教師やって、65歳でこの孤独に向き合うことになったら・・・。
そう思うと、今これを解決したいと思う。
どうやって?
まあ、わからないけど。
それを今からね、探ろうかと。
とりあえず旅にでも出るかな。
③社会の中でポジションを取ることの重要性をわかってなかったことに気づいた。
ずっと頭の中で考えてしまう。
「あぁここまで人生、失敗しちゃったな」って、思っちゃう。
全然思ってたのとちがいましたね。
ほんとうは、星○○さんみたいに、あれもこれものクリエイターになってるはずだったのに(うるさい)。
ぼくが今までわかってなかったのは、『社会の中で自分のポジションを取る』ことの重要性っていうのかな。
10代、20代・・・小学校や中学校や高校や大学の中のポジションをとって安心してた。
30代・・・勤務校の中のポジションばかり気にしてた。
本当は社会の中で、どうポジションを取るかっていうことが大事だったんだ。
それは、「どう生きたいか」「何をしたいか」っていう、『want』を示すっていうことだと思う。
自分はこれをしたいのだって示す。
それ以外にポジションを取る方法ってないのではないか。
別にうまい必要もなければ、いい点数である必要もない。
一つのことにこだわる必要もないし、不変である必要もない。
これをしたいのだって、ちゃんと言うこと。
やってみること。
社会の中でポジションを取らなきゃいけないんだ。
学校の中でもなければ、クラスの中でもないんだから。
クラスの中でポジション取っても、マジで役に立たないとようやく気づいたよ。
人生はそこにはないよ。
だからさ、ちゃんとやりたいことをやるって大事なことなんだよ。
「やりたいことやって食べていけない」なんて、やっぱ嘘だったと思う。
嘘っていうか、浅はかだ。
浅はかすぎる考えだ。
社会の中でポジションを取らず、人生100年時代なんて言われている今を、どうやって生きていくんだ。
やりたくもないことに時間を費やして、65で定年になって、たった一度の人生をどう捉えるかな。
そっちの方がリスクが高くないだろうか?
情けないけど気づかなかった。
30代のときも。
仕事が大変で、帰宅後や休日は、もう飲むことしか考えてなかった。
わずかな自由時間をただ酔って過ごすしか頭になかった。
今思えば、「そりゃ人生こうなるわ」って思う。
なるようになってるだけなんだな、やっぱ。
こうなっちゃったからには、今からでもやるしかないんだろうね。
うーん。
こんな駄文ですが、長くなったので、また次回続きを書こうと思います。
ありがとうございます。
おやすみなさい。
「行く場所」「する事」「会う人」
↑ 1年前に描いたマンガ
私が小学生のときに、突如として『マッドテープ』なるものが、同級生のあいだで広まった。
作者などは今もって不明。
後年、大学生くらいのときに、雑誌「キーボードマガジン」の記事に『マッドテープ』に関する記述を発見した。
当時はネットも当然なく、“一部ウラの世界で広まった” ということでした。
『マッドテープ』知ってる人います?
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「もうできない」と思って、教師を辞めました。
辞めたあと、どうするかを決めないままに。
だから、毎日、なかなかなんとも言えない日々だ。
「行く場所」「する事」「会う人」この3つがない。
この3つって、生きる上でとっても大事だと思う。
それがなくなって辛くなるだろうなって、辞める前からわかってた。
だからいいんだけど。
教師をやりながらだったら、新しく「行く場所」「する事」「会う人」を見つける努力は、きっとしなかった。
そのまま、教師のままだった。
で、そのまま1年経ち、2年経ち・・・・。
もう、教師を辞めるっていうことは、できなくなったと思う。
今までと同じように、毎日不満に思いながら、辞めたいなって思いながら、ずっと続けてたろうな。
専門外の部活に、人生の時間を捧げてたろう。
まるで、自分の時間を安くたたき売るような行為を続けてたろう。
意義を見いだせない進路指導を、続けていたろうな。
自分の本心をは全く違うことを、生徒に言わなきゃいけなかったろうな。
生徒を自立させるのではなく、依存させることを続けていたろうな。
その結果、ぼくみたく、いつか人生に行き詰まるような生徒を作り続けたんじゃないかな。
苦手で意義を見いだせないクラス運営を、続けていただろうな。
その結果、自分を責めたり、自己肯定感を下げ続けたりしたと思う。
ただ人生の時間が、貯金残高に変換されて行くだけの年月。
もちろんそれを「恵まれている環境」と捉える人もいるだろうけど、ぼくには無理だった。
そして、定年になったら、本当に地獄だと思う。
納得のいかない仕事をずっと続け、当然パフォーマンスもあがらないだろうし。
そして定年になったら・・・・。
することもなく、会う人もいなく、何か新しくやる気力なんて、もう残ってないと思う。
それは絶対無理でしょ。
っていうか、スタバのBGMでかすぎ・・・・なんとかして・・・・_:(´ཀ`」 ∠):
ぼくは、新しく「行く場所」「する事」「会う人」を見つける。
今度は、ちゃんといい加減でなく、納得するように。
今まで、本当に、親に学校に社会に、嘘の情報を与えられ続けたと思う。
そんなものに、大切は人生を賭けてしまった。
自分で考えず、任せちゃった。
と思う。
うーん。
この3日くらい、やる気がなくなっっちゃった。
逆に、前がちょっと焦りすぎてたのかな。
ぼくは何ができんのかな。
ちょっとでも「やりたいかも」って思うこと、やってみようか。
ちょっと旅にでも、出てみようかな。
とか、今考えてます。
やる気スイッチ、OFF!!!
↑ 2年前、職員室のPCで作ったポスター
昨日のオーディションは、久しぶりにおもしろかったなぁ。
ライブの前の緊張感みたいなの、好きだった。
すげー緊張したけど、学生時代のライブ前の緊張感と一緒で、すごく懐かしかった。
よく、高円寺とか西荻窪とかでライブをやった。
ライブ前って、他では例えられない緊張感があった。
なんていうか、「すげー嫌だ」っていう気持ちとか、緊張をこえてなんか落ち込む感じとか。
本番30分前に、リポD飲む感じとか。
20分前には、アドレナリンが出る感じとか。
とても懐かしかった。
学生時代には、「社会の中でポジションを取る」という重要性に気づけなかった。
まぁバカだったんだろうな。
大事なのは、「自分として」ポジションを取る。
というか。
なんとなく、安全そうで、認めてもらえそうという理由で、教師を選んだ。
社会の中でポジションをとっていたのは、多分、勤務校である「○○学苑」の方。
ぼくは今、社会の中でポジションがない。
このところ、気持ちばかり焦ってた。
まぁゆっくりいくよ。
キャストパワーネクストのレベルチェックオーディションに参加してきた。
何度も「やっぱバックれようか」と思ったけど。
「やらなかった後悔よりやった後悔」と自分に言い聞かせて、オーディションを受けてきた。
まぁ、大した準備でもないかもしれないけど、自分なりに一生懸命に準備してのぞんだ。
「とにかくやりきろう」という気持ちだけでやった。
自己PR、パフォーマンス、演劇課題。
この3つ。
とにかく、力を出し切った。
審査員の方達は、当然その道のプロの方たち。
最初にそれぞれ紹介がありましたが、頭に入り切りませんでした。
受験者は、ぼくと同年代の男女。
ぼくと同じく演技未経験の人もいれば、ずっとやってこられた方もいた。
こういう世界って、「キツそう」っていうイメージを持っている。
でも、そういう世界で、ずっとやってこられてて、先日ドラマの通行人(セリフあり)の役をやって、テレビの画面にアップになって、娘さんに喜ばれた、なんていう方もいた。
色々な人生があるんだな。
ぼくは、芝居やったことない。
でも、ずっと興味はあった。
だから、やらない後悔よりやる後悔 と思って、今回やるだけやった。
審査員の方も皆、大変に素晴らしい、アドバイスとダメ出しをしてくれた。
と、ぼくは思った。
どの世界も皆、プロの仕事をされている。
とか、思った。
どんなことでも、積み重ねだ。
それを避けられない。
当然のこと。
だから、若いうちから少しでも、「興味のあること」に取り組んだ方がいいはずだ。
なぜ、宝くじのように捉えるんだろう。
「興味のあること」の積み重ねの先には、「成長」があるのに。
そして、どういう形になるかはわからないけど、なんらかの形で、社会の中で自分のポジションが取れればいいんだ。
で、それは宝くじのように、「ほぼ実現不可能」なことではないと思う。
でも、ほとんどの場合、積み重ねの時間がかかるから、焦る必要はないけどできるだけ早く始めた方がいいって思う。
才能のあるなしはそれほど関係ないのかも、と思った。
やらずに後悔しそうなことは、早くやった方がいい。
そう思った。
だってポジションを取るためには、絶対に時間がかかるんだから。
今、若い人も、ぼくの年になったら、思うと思う。
あの時に初めていれば。
とか。
ぼくは、演劇やってみたい。
一回でもいいから。
死ぬまでに。
そんなふうに、なんか今は思う。
今から積み重ねる勇気は、正直ちょっとないかな。
ってなるんだよ、この年になると。
スタートしてから、ポジションとるのに、何年時間がかかるのか。
それは知らない。
でも、早く始めた方が良かったんだろうな。
と思う。
宝くじじゃないと思うよ。
一発かって当てる宝くじではない。
でも、その代わり、ポジションを取るまでに時間がかかる。
きっとそういうものかなって思った。
ただ、もう一つ思うのは。
負けることに対する耐性が必要。
時間も必要。
耐性も必要。
負ける時間。
負ける耐性。
負けることへの耐性は何でつくか。
それは。
「負けること = 自分の価値がない」となっていないこと。
自分のありかたが、そうなっていないこと。
簡単にいえば、自己肯定感があること。
で。
自分自身の価値が脅かされてしまう人は。
やっぱ育ってきた環境(特に母親)に、問題がある。
ぼくはそう。
母親が不機嫌だった。
母親が心配した。
母親が口うるさく干渉した。
母親がヒステリーだった。
母親が幸せそうでない。
母親が話を聞いてくれない。
子どもにとって、母親のありかたは世界のありかた。
その影響は、大人になったからなくなるというものではない。
ぼくは、今、その思いを、紙にガンガン書くことで、自分の潜在意識を探る。
そして、自分にずっと悪影響を与えている思い込みを、暴くことで、それから解放される。
まずは、それをすることが目標。
もう、親のくだらない影響を受け続けるのは、ごめんだ。
やってみたかったことに挑戦しよう。
やってみたかったことに挑戦しようと思う。
2年前に『キャストパワーネクスト』のオーディションを受けていました。
よくはわからないけど、芸能人とか劇団員の養成スクールみたいなやつ?
結局、仕事が忙しくてずっと休所してました。
だから、再開しようと思います。
この前、久しぶりに汐留にあるレッスンスタジオに行ってきました。
久しぶりだったし、無職だし。
「こんなことしてていいのかなぁ」なんてずっと思ってしまって、ちょー心細かった。
ものすごいアウェー感で「やっぱ帰ろうかな」って思ったけど、勇気を出してレッスンに参加した。
結果、すごいたのしかった。
その日は、歌唱レッスンだったんだけど。
本当に久しぶりに声を出して、他の人たちとも一緒に歌を歌って。
たったこれだけのことが、こんなに楽しいんだーって。
講師の先生もプロ。
何かを教わるって、こんなに楽しいことなのかーって。
ほんとうに嬉しかった。
レッスン終わって、家についたときには、また心細くなってたけど・・・・。
思い出したのは。
ぼく、幼稚園生くらいのとき、ずーーーーっと歌っている子どもだったこと。
アニメの歌とか、CMの歌とか、とにかくずっと歌ってたのを思い出しました。
団地の4階に住んでて、自分の家にあがるまでの、全ての踊り場でフルコーラス歌ってた。
そんなことを思い出しました。
あと、子どものときから、演劇に興味があった。
漠然と、「自分も舞台の上でなにかを演じてみたい」って思ってました。
人前に立つのが好きだった。
(だから学生時代はバンドやってたのかな)
ほんと、演劇ってあこがれてたな。
とても楽しそう。
小学校の学芸会でやったのは「木の役」なんだけどね。
マジで。
実際あるんだよね、「木の役」。
それはさておき。
今度の土曜日は、年に2回だけ行われる「所内オーディション」があります。
これに初めて挑戦しようと思います。
なんか何かの演劇の参加メンバーの選考とかも兼ねているらしい。
(えらいあいまいな認識・・・・)
ここ数日、これの準備をしてた。
台本を覚えたり、自己PRの準備したり。
ぼくのできるパフォーマンスといえば、学生時代のバンドしかないので。
さびきったギターの弦を張り替えたり、ガレージバンドで伴奏を打ち込んだり。
準備した。
ひとりで準備してると、どうしても「なにやってるんだろう俺・・・」ってなっちゃう笑。
でも、がんばってやってみるつもり。
昨日は、演劇のレッスンだった。
それもすごい楽しかった。
「ミドルクラス」っていうので、年齢もみんな高めなのも安心した。
しかも演技の経験者が多く、うまかった!!
講師の先生のアドバイスも超ためになった!!
なんだか、みんなそれぞれにがんばってて、ちょっとやる気でたし。
前からやってみたかったんだもん。
やってみよう。
なんか、やる前から「あーでもない、こーでもない」考えるだけなのは・・・もういやだ。
小さなチャレンジかもしれないけど、チャレンジはチャレンジ。
なんかさ、最近思ったのは。
やってみたいと思うけど、やってみないのは。
「負けるのが怖い」からだよね。
なんで負けるのが怖いかっていうと。
「自分の存在価値がなくなる」って思ってるから。
でも、人の存在価値なんて、なくなるはずない。
のに。
そう思っちゃうんだよね。
それは多分、教育のせい。
家と学校。
ぼくはもう、思った。
何度も負けよう。
そうじゃないと、人生が動かないよ。
ぼくはなんだかそう思った。
まだまだ負けるのは苦しいと思っちゃう。
でも、いつか負けるのが楽しくなったら、その時はしめたものかなと思う。
ぼくたちは、教育によって、自分の価値を信じられなくなっている。
だから負けられなくなってる。
つまり、積極的に人生を生きられない。
挑戦できなくなってる。
そして負けたときは絶望してしまう。
もう、ちょっとづつでもいいや。
今更でも、いいや。
変わりたい。
変わろうと思っています。
そいういうこと、がんばろう。
↓ 10年前のボク