教師辞めた ブログ

15年間、教員をしました。このままでは生徒の見本になれない!!『生徒の見本になりたい』そう思ったから辞表を出しました。40過ぎた今から、自分で人生を掴むブログ。イラスト・漫画のお仕事募集してます。メールで相談してください。p-kamiyo@hotmail.co.jp

自己紹介

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このブログの管理人whiteです。

 

年齢は42、独身です。

都内の私立の中高一貫校で数学の教員をして15年になります。

 

この年になって、気づいたことがあります。

感覚的に言うなら「人生をしてこなかった」のではないかと感じるようになったいうことです。

 

子どものころから大きく苦労をしたことはなく、親はよく夫婦喧嘩をしていたもののまぁ普通の家庭に育ちました。

 

父親は大洋漁業に勤めていたサラリーマンで、主に遠洋漁業に関して海外の業者との取引に関わっていたようでした。

 

漁船に乗って遠洋に出ることも多く、よく家を留守にしていました。

 

父親はユーモアを持ちつつも破天荒な人物で、生涯で2回「上司を殴って会社をクビになる」という経験をしています。

 

そんな父親相手ですから、まだ若かった母親も家庭を守るために必死で、その必死さゆえに父とよく喧嘩をしていました。

 

今思えばささいな事も火種となり、母は父と対立したり父を非難したりして、父はそれに対して自己防衛のために母を非難する、という図式で喧嘩が始まりました。

 

その度に僕は怖くて、その時間をただただ我慢していたことを覚えています。

 

母親は普通の専業主婦です。

 

子ども頃の僕から見た母親は、優しくて頼りになる存在でした。

 

しかし多くの人が子どもの頃に経験しているであろう程度には、大声で怒られたりはしました。

 

特に風呂に呼ばれても中々行かなかったときや、髪を切らなかったときなどは、鬼のように怒られました。

 

父親は海外出張で家にいない時も多く、モノの考え方や価値観などの影響を、母親から強く受けてきました。

 

ちなみに、夫婦喧嘩は多いものの全体的には、何事も笑い飛ばせる気質の家庭であり、家族仲が悪いというわけではありませんでした。

 

小学校・中学校時代は、特に大きな問題を起こしたこともなく、一緒に遊ぶ友人もおり、勉強も授業を聞いていればそれなりにできたため、誰もが感じる程度には、自分や周囲に対する小さな不満を日々の中で感じる事はあったものの、何か大きく苦労をしたことはなかったと思います。

 

高校受験では、中学3年の夏頃から塾に通い、地区で2番目の都立高校に合格しました。

 

もし当時に戻れるなら、絶対に1番目の高校に願書を出したろうと思います。

 

1番目の高校の方が文化祭の質がもの凄く高く、私はそうした創作活動が好きだからです(なんなら一生文化祭をやっていたいくらいです)。

 

しかし内申点がわずかに低く、親にも先生にも2番目の高校を薦められました。

 

あまり学校のランクというものに興味感心のなかった私は、言われるがままに進路を決めました。

 

後に大学も同様にろくに調べることもせず、周囲(特に母親)に言われるがままに決めることになります。

 

学歴や学校のランクというものには今でも興味は持てませんが、もっと上位の学校や1番の学校を目指せば良かったと思います。

 

理由の一つ目は、人は本来「自分で決定する」ということを多く経験するべきだと思うからです。

当時の親や先生が、どれだけ社会を認識してたのか、私の能力を正確に認識していたのか、どれだけマネジメント能力があったのかは、わかりません。

しかし、多く見積もっても現在の私と大差ない程度ではないでしょうか。

しかし、当時の私は自分の意向をそもそも持とうせず、そんな普通の他人に空け渡してしまいました。

そう思います。

 

理由の二つ目は、学歴を重く見るつもりはありませんが、上位・最上位の学校に挑戦するということは、合格できればもちろん、挑戦したということをとっても、それでも一つの「自己ブランド」になったのではないか。甘いかな。語れることを一つでも多く持っている  人生の方がいいと思います。

 

高校時代

 

大学時代は、バンドサークルに所属し、3年生のときには部長も勤めました。

とにかく楽しく、仲間と遊びまくった大学時代でした。

21歳ころからオリジナルバンドを結成して、高円寺や西荻窪などのライブハウスにも出演するようになりました。

楽曲はオリジナリティもあり、どこのライブハウスの店長からも好評をもらえる程度には、バンドとしてのクオリティはあったと思います。

中学生の頃からバンド活動そのものに憧れを感じていて、バンドで世に打ち出ていくということを、夢見なかったわけではありません。

しかし、それは子どもが憧れの自分を空想するのと変わらない程度の、具体性の欠けた夢に過ぎませんでした。

それでも色んなバンドと知り合い、イベントを行い、様々なライブハウスをめぐったことは楽しかった。

終電の無くなった渋谷の駅前で、大学では知り合えないような仲間と、朝まで飲み明かしたり。

仲間のバンドとワゴンに機材を詰めて横浜まで走り、大きなライブハウスイベントに出演したり。

卒業間際には、新人発掘の深夜番組に応募し採用されました。

歳のさほど違わない番組スタッフと丸一日掛けてPVの撮影をしました。

知り合ったバンドのツテで、プロの方に担当してもらってレコーディングをしたこともありました。

今思い出しても本当に楽しかった。

 

でも、やっぱり所詮は遊びの範囲でした。

具体的に考えることが怖いから、戦略のないままに惰性で活動を行い、先のことから目を背けていた感じです。

やっぱりバンドでやっていくということを決断するのは怖い。

今もそうだけど、自分で決めることに慣れていないままに来てしまったのかな。

 

そのまま、ある意味では予定通りに、就職を考えていく時期になります。

 

しかし、一般的なサラリーマンなどは、到底やれそうもない。

そもそもモノでもサービスでも、これ以上の必要性を感じない。

「売り上げ」なんて全く興味が持てない。

 

だからどんな業種であれ、一般的な「会社員」になるというような選択肢は初めからありませんでした。

 

当時、個別指導塾の講師をしていました。

自分自身が、高校時代には全く訳が分からなくなっていた数学が、1年間の予備校時代によって数学がすごく伸びました。

そのときに、予備校の授業を受けて、「自分もこんな風に教えたい」という気持ちがどこかに芽生えていました。

自分自身も高校時代に数学に苦しんでいた分、わからない人がどういう理由でわからないのかが、自分にはよくわかっていました。

だから個別指導の仕事は結構楽しかったです。

人に説明するのが楽しかった。

今思えば、成績をあげる努力はしていませんでした。

ただわかりやすい説明をして、学校の授業では理解できなかった生徒が納得する姿を見て、悦に入っていた。

という感じだったと思います。

後に、教員になり曲がりなりにも生徒と格闘した日々を経た現在、当時の僕の仕事を思い出すと、生徒と保護者のかたには授業料を半分は返済したいという気がします。

そのくらい適当というか、自分で悦に入っているだけで、生徒を伸ばすことはあまり考えていませんでした。

 

 

 

ともあれ、「数学を教えることが好き」「数学を教えることなら人並み以上にできるだろう」という程度の理由で数学の教員になろうと決めました。

今考えても安易だと思います。

でも、当時はもうそれしか考えられなかったです。

今も社会や世界にはどんなものがあって、どういう仕組みになっているのかなどについて、そんなに多くのことを知ってはいません。

要は世間知らずだと思っています。

ましてや当時は更にそうだったと思います。

 

中高の数学の教員になるために、同じ大学の理学部数学科に学士入学しました。

そこで教職のための単位と、数学科卒業のための単位を取得しました。

結局3年はかかったと思います。

4年かな?

いずれにせよ学士入学なら本来2年で卒業できる仕組みなのですが、実質必要な単位数を考えに入れると3年かかる計算になりました。

何事も安易に決めていた私は、この必要な年月に愕然とした記憶があります。

こんなに人生をいい加減に考えて、めちゃくちゃなやり方をしていいのだとろうか、と思った記憶があります。

こんなことに、こんなに時間をかけていいのか、罪悪感のようなものを感じました。

 

4月、数学科の授業が始まりました。

 

大学の数学の難しさに面食らいながらも、単位の取得方法は身につけていたようで、試験には何とか食らいついて単位をとって行きました。

 

また人間とは本当に環境に慣れてしまうのか、はじめのころは罪悪感を感じていたほどの時間の使い方についても、慣れきってしまって、ただ単位を取得するための日々でした。

とても安易な日々だったけども、「将来のために勉強している」という体面だけは保つことができてしまう状態で、そんな安易な日々にどっぷりと浸かってしまっていました。

 

こんな風にして、僕の20代後半は、人生において最高潮にぬるま湯に浸かりきった日々だったと思います。

 

今思っても本当に楽に流れた日々でした。

 

でも、体面だけはなんとか保っていられた。

当時は「ひきこもり」とか「ニート」なんていう言葉が広く使われ出した時期でした。

僕もほとんどそれに近い状態だったのに、「一応は資格のために勉強している」状態でした。

その状態に完全に甘えきっていた。

今でも思うけど、僕は楽な状況に馴染んでしまう。

最初は罪悪感まで感じるほどなのに、次第に馴染んでしまう。

多くの人も同じようなものかもしれませんが。

 

資格をとるために、貴重な時間をただ費やすだけ。

何か実践的なスキルが身についているわけでは決してない。

 

自分でもあの時間は恐ろしく無駄だったと思います。

でも、それに甘んじ切ってしまった。

20代の後半という貴重な時間を、僕はそんなことのためだけに費やしました。

甘え切った数年間でした。

 

その後、地元にある私立の中高一貫校に試験を受けに行き、採用が決まりました。

一発で専任採用されました。

自分でも思うけど、私は試験受けのようなものは良いのです。

15名くらい受けたけど、僕含めて2名が採用でした。

当時は学力もしっかりと保てていました。

 

当時はまだ学苑に牧歌的な風潮が残っていましたが、今はそうではありません。

少子化が進む中で、私学は生き残りをかけて、有名な先生たちを外からどんどん呼ぶようになっています。

今なら私などは絶対に採用されなかったでしょう。

 

ともあれ、こうして私は教員になりました。

今年で15年目になります。

 

教員時代にはそれなりに苦労したこともありました。

その中で、僕にとっては人生に関わる大きな学びも得たとも思っています。

 

私が抱えて、そして乗り越えてきた教員が抱える独特の悩みや葛藤は、もしかしたら今教員をされている多くの人にとって参考になるものかもしれません。

おいおいこのブログの中でも伝えて行きたいと思います。

 

現在は、仕事に(というか人生に?)行き詰まりを感じてしまっています。

 

いわゆる中年の危機というものなのでしょうか。

 

本当にあっという間に年をとった。

 

今でもメンタリティは学生時代とさほど変わらないのに。

 

 

最初にある通り、「人生をしてこなかった」という感覚なのです。

 

振り返ってみても、何もない感じ。

何も感じない感じ。

 

何も自分で決めなかった。

何も自分で企画しなかった。

選ばなかった。

主張しなかった。

 

だから「自分の人生」というものの感触がなくて、愕然としてしまう時があります。

情けなくて、こんなこと言いたくはないですが。

 

そんな程度の人間だったのかな。

 

この歳になって、こんなことになるなんて。

 

って本当に思います。

 

休日も逆に苦しい気持ちになります。

 

会う人もいないし、することもない。

 

そんな苦しさです。

 

結婚していれば違ったのでしょうか。

そのチャンスが無かったわけではありませんでした。

 

でも、教員という仕事を続けたくない、なんて思い続けていました。

 

だから結婚なんてしようとは思えなかったし、まるで人ごとのように考えていました。

 

そしたらズルズルと教員も続けながら、今のこの歳になりました。

 

何も変化のないまま。

 

実際には時間はどんどん過ぎて、年をとっています。

 

でも、人生の時間は止まったままという感じです。

 

仕事ももう何年も、頑張れていません。

最低限はこなせてはいますが、積極的に何かがんばるということはできなくなりました。

 

 

なんでこんなことになったのでしょう。

こんなことになるとは本当に思っていませんでした。

 

でもなるべくしてなったとも思えます。

 

その理由は、やはり「人生をして来なかった」ということかと思います。

 

「自分で掴んでこなかった」

 

 

昨年末(2019年の12月あたり)、いよいよ今の教員の仕事を辞めようと、本気で考えました。

 

これまでにも何度も、辞めたい辞めようとは考えていましたが、このときは辞めることをリアルに考えました。

 

すると辞めたあとのことを考えてみると「もの凄く」怖くなりました。

 

自分には何もないということを感じたからです。

 

あくまで今の僕は「〇〇中高の教員」ということでしか、社会的に認知されない存在だということに気づきました。

 

この社会の中で誰も僕のことを認識してくれないのです。

 

あくまで認知されるのは、僕の所属する「〇〇中高」であって、それを外した僕自身には何もない。

 

考えてみればそんな当たり前のことに、このとき初めて気がつきました。

 

世の中に、全く通用しない。

世の中に打ち出す物を何も醸造してこなかった。

 

組織に所属して、その仕事に心から納得しているならまだ良かったと思います。

 

でも、僕はもう教員という仕事は違うと思っているのです。

 

そもそもがいい加減な動機で目指すことになり、さしたる努力もせずになった仕事です。

それに今は教員や学校というもの自体に、疑問を感じている部分もあります。

 

もうこれ以上、教員を続けることはできない。

でも、辞めたあとが怖すぎる。

 

どっちも嫌だ。

そんな板挟みのような状態になってしまいました。

 

なぜこんなことになってしまったのか。

 

それは自分の人生を「人任せ」にしてきたからだと思います。

 

言われた通りやっていれば、何かがどうにかしてくれる。

 

そんな意識があったと思います。

そもそもそんな意識を持っていたことにすら、気づいていませんでした。

 

言われた通り勉強していれば、言われた通り高校にいけば、言われた通り大学に行けば、言われた通り就職すれば。

 

それをし続けた結果が今のこの状況なんだ。

 

僕は今、伊東聖鎬という人のもとで、「読脳」というものを勉強しています。

 

YouTube上には、にわかには信じられない、まるで超能力のような方法で、様々な症状に悩まれている方たちを改善させています。

 

最初は誰しも、詐欺ではないかと疑うと思います。

 

しかし、伊東先生の授業で話される内容は、「人任せにしない生き方」「自分で掴むことの重要性」など、至極まっとうな(?)話ばかり。

 

ただ、その真っ当なことができていない。

そのことをハッキリと突きつけられています。

 

このブログでは、そんな「読脳」を学んでいる上での気づき、僕自身が今までの経験の中で得た気づき、そんなものを書いていこうと思います。

 

目的は、僕自身が「自分で掴む」生き方をするためのきっかけにすること、そして、同じような状況にある人たちになんらかの参考になってくれればと思っています。