未来をもつ、ゴールを設定する
① 「とび」をやることにしました。
一昨日『とび職』の仕事の面接に行ってきました。
ある知人(私にとっては先生)に、勧められたからです。
この人は若いときに、実践の場こそ学びの場と捉え『30歳までに100の地域で100の仕事をする』という目標を掲げ、全国を放浪した経験があります。
今のぼくは、『自分の考えで動くのではなく、師と定めた人の言うことにとにかく従う』ということが一度、必要な気がします。
危険で気の抜けない状況。
常に他人が近くにいる状況。
心身ともに自分を追い込まれる状況。
そういう状況の中で、自分を見つめ、自分を知る。
そういうことがきっと必要なんだと思う。
明日から仕事です。
修業のつもりでやってきます。
どのくらい続けるのだろう。
半年? 1年?
わかりません。
教員を辞めて、3ヶ月と19日。
自分なりにやってきてみたけど、ちょっともう次の展開が必要だと感じます。
だから正直、『とび』は文化系人間のぼくには、180° 真逆な世界だと思うけど、飛び込んでみます。
今のぼくには、きっと見えていないものがある。
だから今の状況で考えても、進まない。
かもしれない。
だから修行のつもりで、180°真逆の世界でやってみます。
② 未来をもつ、ゴールを設定する。
今の自分の人生は、すべて自分の行いの結果。
今のぼくは、一人でアパートで、することもなく、求められることもなく、悶々とすることの多い日々だ。
なぜ、こうなったのか。
それは今までの生き方が、こうなる生き方だったから。
このところずっと、『どうしてこうなったのか』という思いが拭えません。
後悔は何も生まないとわかっていても、考えてしまう。
いくつか、思うことがあります。
「やりたいと思ったことは、もっと素直にやれば良かった。」
「家庭の影響から、もっと早く脱却すれば良かった」
「自分で決めたゴールを設定して生きるべきだった」
「やりたいと思ったことは、もっと素直にやれば良かった。」
やりたいと思うことは、年をとってもなかなか消えない!!
今、ぼくは某演劇のオーディションの結果まちです。
なぜ、そのオーディションを受けたのか。
そもそもなぜ、演技は全くの未経験なのにキャストパワーネクストに所属したのか。
子どものときから『演劇をやってみたい』という思いがあったからです。
興味があってやりたいなと思うことって、どうやら蓋をしても、消えるわけではないようです。
年をとるほどに状況は厳しくなる。
だったら、できるだけ若いうちに「とりあえずでもやってみた方がいい」と思う。
そのときは、なにも卑屈になる必要はない。
自分が何かをやりたいと思うということは、とても誇らしいことと考えるべきだ。
やってみた結果は、どうなるかなんてわからない。
でも、トライするときには堂々とするべきと思う。
その人が、この地球上に生まれて、死ぬまでのたった数十年の間に、それをやりたいと思っている。
そのことの尊さをもっと感じて、尊重するべきと思う。
もしそれをやらなかったら、なんのために生まれてきたんだ。
どうして卑屈になる必要があるのだろう。
やるなら早い方がいい。
年をとって、状況が良くなっていくということは稀だと思う。
「現実は厳しい」?
だ、か、ら!!
んなこたぁわかってんだよ。
結果なんて水もので、狙った通りになんてならないことは承知で。
やってみることに意味があり、成長がある。
もう一度言うけど、やりたいと思うことは年をとったからって消えるわけじゃないから。
「やってみたかったな」という思いを抱えたまま、何十年も過ごすのは、きついだろう。
やってダメでも、経験は間違いなく増える。
それが成長で、次の何かにつながるはずだ。
そうやって人は生きていくんじゃないのか。
「家庭の影響から、もっと早く脱却すれば良かった」
ぼくは今ようやく、自分の生まれ育った家庭の影響から抜け出しつつあると感じています。
この歳でようやく自立をすることができつつある。
母も父も、まともじゃなかった。
つまり「子どもを育てるということについて無自覚」だった。
父が破天荒だったので、夫婦喧嘩は絶えなかった。
だから「母が正義」と子どもの頃から思っていた。
しかしその母とて、無自覚であったことには変わりない。
なんの方針をもつでもなく、言いたいことだけ言い、感情的でヒステリーにわめく。
自分の思いだけを爆発させ、話し合うことができない。
「母が正義」と子どもの時から思い込んでいた分、母のヒステリーをまともに受けて、自分を責めてしまっていたかもしれない。
母の価値観に沿わない行為には、罪悪感を抱いてしまっていたかもしれない。
生きにくさの原因に、まちがいなくなっていたと思う。
ただ言えるのは、「両親なんて普通こんなもの」ということ。
要するにバカだ、ということ。
それはオレも同じこと、オレもバカだ。
バカじゃなければ、もっと納得のいく人生を自分で勝ち取る努力をしていただろう。
バカな人間が、子どもを産んだからって、まともに育てることができるはずがない。
ただでさえ、この社会の中で生きていくのは大変なのに、「バカ同士が子どもを抱えて家庭をやっていく」なんて無理ゲーすぎる。
きっとものすごい苦労とか不安とか恨みとか、そんなものに毎日苛まれていたことだと思う。
大変だったろうと思う。
そう考えると、よく育ててくれたなと考えなくはない。
だからといって、感謝するべきというわけでは絶対にないと思っている。
そもそも感謝なんて自発的なものに対して「べき」とかアホかと。
親に感謝しろというなら、子どもにだって感謝しろとなる。
ましてや、多くの場合、子どもが抱える苦労は、親がまともであればしなくてもいい苦労だらけだ。
社会の傾向として、子どもが親を甘やかしすぎている。
それがますます無自覚な親を生んでいる。
で。
多くの場合、親とはその程度の存在だ。
だから、物理的にも精神的にも切らなきゃいけない。
自立をしなきゃいけない。
そうしないと、自分の人生が始まらない。
いつまでも、親の価値観や影響がチラついていては、自分の人生にならない。
親の話は、全無視でちょうどいい。
話あいはできない。
親の考えは変わらない。
話も絶対に通じない。
だから何も言わず、全無視。
これ一択だ。
親ばなれ子ばなれは当然のことだ。
親に感謝すべきとか、親を尊敬すべきとか、慕うべきとかいうのは、支配者の言葉だ。
できるだけ早く、親の影響、家庭の影響を自覚して。
まず、一掃する。
親もとを離れ、きる。
それが自分の人生を生きるスタートだ。
「自分で決めたゴールを設定して生きるべきだった」
未来にこうなりたいという達成したい「夢」を持って生きるべきだ。
今更、気づいた。
「夢がなくちゃ生きていて救われない」
そんなことを43年生きて、今思う。
実現したい未来、と言いかえてもいいと思う。
未来を持たなくちゃ、生きていて救われない。
have to ではなくて want to であること。
誰かからの押し付けではなくて、自分で決めたものであること。
現状の外側であること。
それを設定して、そのために行動する。
それが生きるっていうことだと思う。
人と比べるのでなく。
自分が成したいと思うことを設定して、そのために生きる。
生活のために生きるのではなくて。
設定した未来のために生活がある。
正解も不正解もなくて。
貴賤もない。
ただ、自分が本当に成したいと思えること、そのためにすべてがある。
だからすべてが経験・学びになるんだ。
受験勉強があるから学びになるのではなかった。
未来を持つから学びになるんだった。
思えば、そんな未来を設定することがなかったと思う。
受験の時期だから受験をし、就職の時期だから就職をした。
どこにも自分で決めたものはない。
“時期だから“。
楽しそうなことがあればノリ、嫌なことをガマンしたあとは酒を飲み、断れないから従い、サボれるならサボり、時期が来ればやる。
そんなことの繰り返しの結果が、今の状況なのか。
どこにも、「この人生をどう使うか」の未来を見据えた視点がなかった。
そう思う。
救われない。
でも、それこそもう、後ろを見てても仕方ない。
他人を見てても仕方ない。
毎日のように挫けるが。
残りの時間をやらなくちゃ。
未来、夢、ゴール。
それがないと、やはり自分の人生とは言えないと思うし、生きた実感が持てないと思う。
ゴールはいくつあってもいい。
途中で変わったっていい。
でも、ゴールのために生きればすべてが学びだ。
若い人には、早いうちからそういう考え方をしてほしいと思う。
ぼくは今、自分のスキルのなさに、愕然としている。
できるだけ若いうちに、上の3つを意識してほしい。
ぼくは、それをしなかったから今苦しんでいると思う。
多分、どこかではこの壁にあたり苦しむべきなんだと思う。
早い方が、その後のリターンが長いんだ。
今は、この反省をそれこそ未来にむけなきゃいけない。
次の5年10年20年のために、もう同じミスはしない。