教師辞めた ブログ

15年間、教員をしました。このままでは生徒の見本になれない!!『生徒の見本になりたい』そう思ったから辞表を出しました。40過ぎた今から、自分で人生を掴むブログ。イラスト・漫画のお仕事募集してます。メールで相談してください。p-kamiyo@hotmail.co.jp

私が教師を辞めた理由

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↑ 2年前に描いた4コマ。

初めてCDというものに触れたとき。

確かに感動だったなぁ。

もう、『何か新しいものを買って』感動するなんていうことは、きっとないと思う。

カセットテープとはちがって、「ずっと変わらないクリアな音を何度でも聞ける」ということ。

これは本当に感激だった。

CDを買うということが、一大イベントだった。

CDを買うというが「その曲そのものを手に入れる」という感覚だった。

本当に好きだった、CD。

 

 

この2日くらい、かなり気持ちがおち、まじで何もしない日もあった。

一日中、一人のアパートでYouTubeをながめ続けるっていう生き地獄。

絵も描けない。

そういう日もあるってこと。

 

 

図書館に行って、バックパッカーの本を7冊借りて読んだ。

なんかよくわかった。

気がする。

もういつでも行けそう。

と思った。

 

考えてみれば、コロナで海外渡航できそうにないって気づいた。

コロナ終わったら行こう。

 

 

ということで、チャリで国内を行ってみようと思う。

ぼろぼろになったチャリを整備に出す。

 

整備にかかる時間は、一週間程度。

ほんと俺って、行動が遅い。

 

迷ってばかり。

戸惑ってばかり。

 

ずっとそうだった。

 

でも、動こう。

どんなに遅くても。

動いていこうと思います。

 

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ぼくが教員を辞めた理由は。

 

 

ひとことで言えば、教師の仕事が、生徒のためになっていないと思ったからです。

 

 

以下、私の文章力のなさが原因で、なにか批判的な表現があるかもしれない。

でも、決してなにかを批判するつもりなんてないし、そもそも批判できる立場じゃない。

あくまで、思っていることをできるだけストレートに表現しようとしているだけです。

私の文章力がないだけです。 

 

 

 

 

 

①よくある『しつこく追いかけてくれた先生のおかげ』美談。あれ本当にそうか??

 

 

「中学のときの担任の先生が、課題をやらない私を部活の場所にまで追いかけてきました。

ずっとマジでうざいって思ってましたけど。

今は、先生のおかげで落ちこぼれずに済んだって思ってます。

○○になる夢をあきらめずに済みました。

本当に感謝しています。」

 

とかっていうの、違和感があります。

 

 

そもそも○○になるっていうの、ほんとうに夢だったの?

 

ほんとうにそれになるのが夢で、そのために課題をやる必要があるっていうこと、わかってたのなら、課題はちゃんとやっていたんじゃないの?

 

課題をやっていなかったってことは、それほど○○になりたいって思ってなかったんじゃない?

 

あるいは、「○○になるっていう夢」って、なんとなく周りから見てウケが良さそうだからっていう意識があるんじゃない?

 

あるいは、○○になるためにその課題をする必要があるっていう認識を持てていない、目標管理意識の低さが問題だと思うけど。

 

あるいは、これから先もその先生みたいな誰かがいないとダメってことかい、とか思ってしまう。

つまりその時点では、何も解決してなくない?

なんなら、課題出さずに、成績おちまくって、いろいろおちまくって、○○の道も閉ざされて、自堕落に生きて・・・・なにか気づく、方がよっぽど有益じゃない?

 

 

 

追いかける方の先生は、なぜ追いかけるのだろう?

 

確かに、その時点でその子が勉強するようになったとして。

 

その先、その子はそういう外的圧力がなくなった場合、勉強できるのかな。

 

ある学齢においては、外的圧力というか動機付けというか、あってもいいとは思う。

しかし、それは美談といえるだろうか。

 

 

失敗する機会、気づく機会を奪っているんじゃないだろうか。

 

追いかける先生は「俺が担当している生徒だからよくする」って目先のことだけを考えていないだろうか。

 

余計なお世話をしてないだろうか。

 

そもそも課題ってなに?

 

どういう理由で、与えられたの?

 

なにのためにやるの?

 

ほんとうにスキルアップに必要なの?

 

ただの資格取得?

 

忖度?

 

やる必要あるの?

 

ほんとうに○○のためにやる必要あるの?

 

やる目的がはっきりしていないのにやるって、危険じゃないの?

 

 

 

目的や意義や意図を考えさせず、やらせる。

 

これは危険だと思う。

 

 

そういうことの積み重ねが、考えない生徒をつくると思う。

 

やるなら、なぜやるのか。

 

それを自分で設定させる。

 

それが重要なんじゃないの?

 

 

そういうことをさせずに、美談になんてなるのだろうか。

 

それがなければ、自分で考える人にはならないと思う。

 

もう、そういうのは嫌でした。

 

 

 

 

 

 

②ボランティアは全員やる!!

 

 

大学受験も、ぼくら(40代)のときとは、かなり様がわりしています。

 

ひとことでいうなら。

 

 

「いかに勉強しないで、できるだけいい大学に行けるか競争」

 

 

そう感じます。

 

もちろん一生懸命に勉強して、一般受験に臨む子もいます。

 

しかし、今や半分以上が推薦入試です。

 

10月11月には、ほとんどの子の進学先が決まっています。

 

ほとんどの子がです。

 

僕の勤務校だった学校では、特進でない普通クラスであれば12月には8〜9割の生徒が、受験を終えています。

 

特進クラスでも半数は終えていたかな。

 

 僕と同世代の人からすると、結構おどろきませんか?

 

一体どんな試験なのか。

 

 

・書類選考

・小論文

・面接

・プレゼンテーション

・集団討論

 

 

・・・・筆記試験は?

 

 

もちろんあります。

でも、ない場合もあります。

 

あっても最重要視されるわけではないし、科目数も1とか2とか。

 

これで、受験生の一体なにが測れるのだろう。

 

 

書類選考のためにボランティアは全員強制。

もはや矛盾しまくりのことば。

 

志望理由書は、担任の度重なる修正によって、もはや誰の志望理由なのかわからないほどに。

 

プレゼンテーションや面接では、いかに「1のことを10にして言うか」を指導しているよう。

 

さらに昨今は、進学先の決定と職業の選択が、いっそう密接につながっている。

 

だって、そうしないと志望理由が書けないから。

 

 

 

 

18歳程度で、ほんとうにその仕事につきたいってわかるの?

 

 

 

 

ほんとうに薬剤師になるのが「夢」なの?

ほんとうに看護師になるのが「夢」なの?

ほんとうに建築師になるのが「夢」なの?

ほんとうに教師になるのが「夢」なの?

ほんとうに管理栄養士になるのが「夢」なの?

 

 

ちなみに、職業差別をしたいわけじゃ、もちろんないです。

 

 

ただ、教師ぐるみで「夢」といわせることに疑問があるんです。

 

 

もちろん教師のみなさんを批判したいわけでもありません。

僕は、かつての勤務校において、多くの同僚の教師を尊敬していました。

 

 

 僕が「もうできない」と思ったのは。

 

 

 

 

「資格が取れれば安心だ。」

 

 

というだけの理由に対して。

 

 

「幼いころ○○したことがきっかけとなり、○○に興味をもつようになりました。

さらに中学生になって授業中に先生がしてくれた〇〇の話を聞いて、〇〇になることを決めました。

将来は、〇〇のような〇〇になって、世の中の〇〇な〇〇の人たちに役立てるように、〇〇な〇〇になりたいです。」

 

 

 というような文章を作り出すことに耐えられなくなったからです。

 

生徒と一緒に、時間をかけて相談しながら、そんな文章をこしらえるのは、耐えられない。

 

 

しかも生徒は意外にも、『そうして志望理由書をかいて、大学に行って資格をとり、その職業についていくことが、人生というものだ』と割と本気で思っている節があります。

 

それってほんとうに人生なのかな?

 

やがて僕のように行き詰まるんじゃないのかな?

 

試行錯誤がなさすぎないか?

 

養鶏場の鳥とどう違うのかな?

(↑いいすぎ?でもちょっと思う。)

 

 

 

人生ってそんなふうにベルトコンベヤーのようにいくだけものものだろうか。

 

やがてそのように生きた人たちが子供をもって、その子にも同じように教育する。

 

 

でも、断言できる。

 

 

人は、病気になるし、事故にあう。

思いもかけない困難な状況にあう。 

 

 

ベルトコンベアーに乗ったって「無事・安全」なんてないんだよ。

 

ベルトコンベアーに乗っていくのなんて、人生ではないと思う。

 

だって対応できるのか?

そうなったら。

 

きっとベルトコンベアーに依存したように、他のなにか依存できるものを探すだろうと思う。

 

 

僕も今さら気づいた気がするけど、人生はまず自立だと思った。

 

 

18歳から職業を夢としてとらえて、資格を得て仕事して年とって。

子どもにも同じことを教えて。

経済的には自立できるだろうが・・・・。

ベルトコンベアーからは外れることはできないんじゃない。

それは自立した人生なのかな。

僕のように、やがて行き詰まることはないかな?

 

 

 

言いかた変かもだけど・・・。

死なないように生きたって、必ず死ぬよな。

 

 

 

大袈裟かもしれないけど。

 

養鶏場の鳥に、自分から進んでなっているのではないか。

 

生徒に、進んでならせているのではないか。

 

 

 

 

 

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↑2年前に描いた4コマ。

思い出。

 

 

 

 

③正解・不正解の収束型学習

 

 

昨今は、ネット上にアドバイスが多すぎる!!!!!

 

 

「人生を変えるなら〇〇しろ!!」

「〇〇する奴、人生終了!!」

「〇〇の原因はこれ!!!」

 

 

 

なんか・・・・・。

 

 

 

 

 

もう、うるせーーーーーーーーーーーーー!!!!!!

 

 

 

 

 

って思うのは、僕だけじゃないはず。

 

 

なんかよ。

 

いろいろいわれすぎて動けなくなるよ。

 

 

 

正解を言うなよ!!!!

 

不正解が生まれるだろうが!!!!

 

 

 

 

正解を言うから!!!

 

やっちゃいけないこと(不正解)が、生まれるだろうが!!!!!

 

 

 

 

 

頼んでもいねーのに、アドバイスしやがって。

 

 

 

 

アドバイスがあるから!!!

その反対がタブーに感じちゃうだろう!!!!

 

 

もはや動けなくなるだろう!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

なーんちゃって。

 

 

 

 

 

もちろん、とても有益な情報もたくさんあって。

ほんとうに助かるし、いい時代だと思います。

 

 

 

でも、僕のように、フットワークの重い人間にとって。

 

 

「正解を言われすぎると、それ以外ができなくなる」というのは、ある程度の事実だと思う。

 

 

 

 

学校の学問は、「正解・不正解で行動を抑制している」ように思える。

 

少なくとも、そういう見方はできる。

 

 

未知のものを試行錯誤で切り開く「発散タイプ」ではなく、特定の答えを探し当てる「収束タイプ」の学問。

 

 

そういう性格のものであると、ちゃんと自覚しながら勉強した方がいいと思うし。

 

 

教える方も、そういう性格のものであると、ちゃんと自覚しながら教えた方がいいと思う。

 

 

少なくとも、そのことをわかっている教師は、ほとんどいないように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日、エガちゃんねるが復活した。

すごくうれしい。

僕もがんばろうと思います。

 

 

 

 

 

 

今日もほんとうにおつかれさまでした。

ありがとうございました。