教師辞めた ブログ

15年間、教員をしました。このままでは生徒の見本になれない!!『生徒の見本になりたい』そう思ったから辞表を出しました。40過ぎた今から、自分で人生を掴むブログ。イラスト・漫画のお仕事募集してます。メールで相談してください。p-kamiyo@hotmail.co.jp

やるしかない。

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孤独には慣れつつある。

と思う。

 

 

自分が無力なことも受け入れつつある。

と思う。

 

 

働きたい。

でも、もう、大事と思えないことで働くのはイヤだ。

イヤだっていうか、できそうもない。

きっと、心も体も動かない。

 

 

誰かがどう言っていたか、そういうのはもうなしにしたい。

誰かがいいと言ってた、悪いと言ってた、そういうのは もうなしにしたい。

 

誰かと比べて、いいとかわるいとか、ついつい気づくとそういうことばかり考えている。

 

そうじゃぁなくて。

 

 

 

 

 

「自分」

 

 

 

 

 

 

「自分」がどう感じるか。

 

「自分」が意義を感じるか。

 

「自分」が大切だと思うか。

 

 

それだけ。

 

 

本当は、それしかないと思う。

本当は、それしかなかったんだと思う。

 

  

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もういい。

 

死ぬまでに何か見つかれば。

っていうか、死ぬまでそういう姿勢で、そういう気持ちで、生きられれば。

 

まだ、お金も時間も、なんとかなるくらいにはある。

 

 

自分だよ。

自分。

 

 

自分がどう思うか。

自分にとってどうか。

価値あるか、意義あるか。

 

 

 

 

 

そういうのって、あまりに考えてきていなさ過ぎる。

 

 

 

 

 

学校でもそう。

生徒に教えていることは真逆。

 

 

 

 

「自分」じゃダメだから。

「自分」じゃ迷惑だから。

「自分」じゃ間違うから。

「自分」じゃ損するから。

「自分」じゃ負けるから。

 

 

 

 

 

 

うるせー、クソゴミやろう!!!!

 

 

 

 

 

 

その結果、人生そのものに、生きることそのものに、価値を感じなくなることへの責任は、お前らとれるのか!!!

 

 

 

 

とれるわけないよ、他人だもん。

 

 

 

 

なぜ、そこまで「自分」をないがしろにするように、教えるのか。

 

 

学問は大いにしたらいい。

 

 

でも、最終目標は、「自分」を確立するためであってほしい。

 

 

 

 

 

 

 

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思えば、ぼくは今まで、いい意味でこう↑  だったときに、結果を出せた。

 

小さいながらも、いくつかの成功体験は、「いい意味でこう↑」だった時に得られた。

 

たとえば、大学受験のために浪人してたとき。

 

 

あのときは、ほぼ誰ともつるむこともなく、情報交換することもなく、予備校の授業を徹底的に予習復習してた。

 

「効率のいい方法」とか「お得な情報」などクソ喰らえだった。

 

ただ、自分が大切だと判断したことだけを、自分が必要だと思うだけ、やり続けた。

 

 

人と比べることなんてしなかった。

だから、周りは一切視野に入っていなかったと言える。

気にもしてなかった。

自分の成績がどの位のところなのかなんかも、どうでもよかった。

だから手を抜くこともなかったし、逆に追い詰められることもなかった。

 

 

気づいたら、数学に関しては、全国模試で上位として名前が出るようになった。

 

 

あのとき、いちいち周囲の様子を見て、手を抜いたり、逆に焦ったり、しなくて良かった。

 

いちいち誰かと比較しなくてよかった。

 

 

 

 

今度も同じだ。

 

 

 

 

人生そのものを。

 

そう考えよう。

 

 

 

 

もう、これは「俺の」人生だ。

 

 

誰かに、見せるものじゃない。

見てもらうものでもない。

評価いただくものじゃない。

 

 

 

 

 

まだ、大事なものは見つかってない。

 

 

(少なくとも今のぼくには、教師をやるよりミンキーモモの絵を描くことの方が大事なようです。)

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でも、必ず見つけます。

 

 

クソ喰らえです。

 

 

 

 

意義あると感じること、大事と思えることを、一生懸命やる。

 

それがいずれ経済にもつながる。

 

人との関わりで、その人に貢献する。

 

 

 

 

 

 

 

今の自分の力のなさに愕然としながら、いきます。

 

 

 

 

 

 

「クラス」は管理者側の都合・・・と思う。

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↑ おもしろいですか?

どうですか?

 

ここ数日は、姪っ子の世話のために実家にいたり。

また、キャストパワーの仕事(?)をちょっとやったり。

 

なまじ予定がある分、すごくぬるい日々になっちゃった。

 

時間は早いな。

 

ぬるいなぁ。

 

無職になった当初のあの切羽詰まった焦りはどこへ行ったのかな。

 

 

 

 

 

特に何か進んだわけでもないのに。

 

 

 

 

 

この調子でいくのは、まずいだろうと思う。

 

なまじ人と関わって、なまじ予定があって。

 

 

そういうんじゃないよな、多分。

と思います。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

学校の先生って、やはりとても大変なんですね。

 

 

ぼくも一時期、クラスがまとまらないことに、ものすごく悩み苦しみました。

 

 

 

 

「どうしてクラスがまとまらないといけないんですか?」

 

 

 

 

というアドバイスをくれる人もいました。

 

ほんとうにその通りだと思います。

 

もし今のぼくが、当時のぼくにアドバイスするなら、同じことを言うと思います。

 

「別にクラスなんてまとまる必要ねーよ。そもそもクラスなんて管理しやすくするために存在してるんだけだから、管理者側の都合しか考えていないものなんだし。」

 

ということを言うと思います。

 

 

 

 

 

でも、そのクラスと毎日顔を合わせるとなると、やはり苦しい。

 

 

 

 

 

毎日毎日、まとまらないクラスと顔を合わせる。

 

そして、その原因はほぼ100%、担任である自分にある。

 

その状況は、どんなに開き直ろうとしても、難しいですよね。

 

 

 

ぼくも当時、クラス運営のためにいろいろと本を読んだりしました。

 

 

 

 

でも、正直いってまるで頭になんか入らなかった。

 

だって、クラスのことも学校のことも、考えたくもなかったから。

 

 

この前、その本を再度読んでみたら、読めた。

 

 

今読めば、内容もよくわかるし、納得もいく。

 

 

 

 

でも、渦中にいる先生には届かないよ。

 

 

「今」「すぐに」この苦しみから逃れたいんだから。

 

 

 

 

それしか考えられないんだから。

 

 

わからない人には、努力不足とか思われるのだろうな。

 

 

 

どんなに努力しても、できないものはできない、という人はいる、と思うのだよ。

 

 

 

 

そういう本にも、「クラスを荒れさせないための方法」がいろいろと書かれているのですが。

 

 

 

その方法を実行できる人とできない人がいる。

 

 

 

そういう本を読んで、一時的には「よし!やろう!!」と思っても。

 

 

 

 

子どもたちとの関わり自体に、削れていくんですよ。

 

 

加えて、教師は、あれもこれもの仕事なので、どんなに頑張っても2学期の半ばごろには、もう元に戻るんです。

 

 

そんなことが何度もありました。

 

そういう人っていると思うんです。

 

良い悪いじゃないと思うんです。

 

そういうタイプなんです。

 

 

ぼくは。

 

 

 

 

授業だけなら、ほぼ問題ないです。

 

っていうか、逆に楽しい。

 

 

 

クラスっていうのが得体が知れない。

 

 

 

目的が、管理側の都合だからだと思います。

 

 

 

生徒の都合ではないからだと思います。

 

 

 

そもそも、「荒れさせないためにそれだけの労力を要するクラスという仕組み」って必要あるのかな?

 

 

 

選んだわけでもない者どうし、毎日顔を合わせるって・・・・。

 

教師も生徒も不幸じゃないですか?

 

 

 

 

ぼくは、もうそろそろ考えてもいいと思います。

 

 

 

 

 

今後も、ぼく自身のいろいろ苦しかったことを、書こうと思います。

教師は悩む人が多いと思う。

 

ぼくは、すげー悩み苦しむタイプでした。

 

だから、何かの参考になるかなと思いますので。

 

 

 

 

 

 

今週もほんとうにお疲れ様でした。

ありがとうございました。

 

 

 

「ひとりじゃない」と思えること。

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↑こんなこと、思う。

思うというより、真実だと確信しています。

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① 富士山の近くの知人を訪ねた。

 

もう、アパートにいるのは限界だったので。

 

河口湖ちかくに住む知人を訪ねました。

 

数日間、宿泊しました。

 

旅行はいい。

 

まじで。

 

 

 

考えが変わる。

 

 

 

そこがいい。

 

今度は、チャリで出かけよう。

 

と思っている。

 

 

この知人は、かなり特殊な人で。

 

機会があれば、どこかで詳しく書きたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

② 知人からの電話で、まじで気持ちが落ち着いた!!

 

とある知人からLINE電話がきた。

 

20分ほど話した。

 

 

 この人との会話は、あってもなくてもいいような会話ではなくて。

 

 

本音でいろいろと話した。

 

 

それは絶対に大事なこと。

 

 

どんなに大人になったふりしてても。

 

 

中学生のように、本音で話会いたいんだろ???

 

そういう場は、大事やぜ?

 

 

 

で。

 

思ったのは。

 

 

それ以降、まじで。

 

 

 

 

ひとりじゃない感があって。

 

 

 

 

 

すごく気分が楽。

 

 

 

 

久しぶりの感覚。

 

 

 

 

今日一日、すげー気分が落ちついていられた。

 

 

 

ホモサピエンスが、いかに繋がりを必要としているか。

 

 

すっげ、実感した。

 

 

 

こういうことを体験したかったのかな。

 

 

 

 

 

 

クソ政府がいう「絆」とか「つながり」は、ハイパーめちゃくちゃクソゴミだけど。

 

 

 

 

 

 

この、たったひとりと会話したこと。

 

このことで気づいた、ホモサピエンスとしてのつながりは、なんか実感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁなんかやっていく。

 

 

ちょいちょいなんかやっていくようになってる。

 

 

 

なんかキャストパワーの仕事も一個やれるし。

 

 

 

 

 

仕事っていっても、交通費程度やん!!!

 

 

 

あれだよ、ここでも搾取かよ。

 

要はエキストラ事務所だよね。

 

 

レッスンはプロの講師でいいけどね。

 

 

これ、ほんとなんかなれるのかよ。

 

 

 

 

 

 

でもいいのだ。

 

やってみたいし、結構好きだし、楽しいし。

 

 

 

 

 

 

2ヶ月半たって。

 

 

 

 

 

車輪が1ミリ動いた?

 

 

って感じ?

 

 

 

焦るのは自然なこと。

 

 

  

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とにかく、下手でもなんでもいいから、やるのだ。

 

 

 

 

クソみたいなアドバイスなんて、クソなのだ!! 

 

 

 

 

 

 

今日も一日、 ほんとうにおつかれ様でした。

ありがとうございました。

 

 

 

正直いって

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毎日、苦しい。

 

 

そうなるだろうと思っていたし、それを乗り越える必要があると、思い定めていたんだけど。

 

 

先が見えない。

 

 

毎日、まるで逃げるようにカフェに入って、絵を描く。

 

 

それも日に日に、気力がなえているのがわかるな。

 

 

教師を、仕事を、辞めたことには1ミリも後悔はない。

 

 

絶対に続けられないと思った。

 

仕事には、なにも感じなくなってしまっていたと思う。

 

 

 

やりたいと思えることが、ない。

 

 

 

 

結局、中学生くらいのときから、それに悩んでいたのか。

 

 

『夢中』になれれば、人は救われる。

 

 

 

大事だ思えることが、みつからない。

 

 

 

 

数学を教えること自体は、好きだ。

 

生徒と絡んで、ふざけたこと言って、言われて・・・・。

 

人と関われるし。

 

若者と関われる。

 

これは恵まれている。

 

楽しい。

 

 

でも、嘘も言わなきゃいけないことがもう嫌だった。

 

大事じゃないことを大事だと。

 

 

 

 

ほんとうに大事なことは、学校の教師じゃ教えられない。

そう感じる。

 

 

それに、僕はまだまだ知らない。

 

生徒との関わりは楽しいが。

 

 

このレベルで関わってたって、生徒を救えない。

 

「救えない」は大袈裟か?

 

 

ほんとうの意味で関われない。

関わりに意味がない。

 

楽しいのではあるけどね。

 

 

関わりから何か、納得のする何かが生まれる気がしない。

 

 

 

数学なんて簡単だ。

誰だって教えられる。

ちゃんと相手の様子を測ることさえできれば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生徒も「夢中」をみつけることに全力を注ぐべきだと思います。

 

 

「自分で決める」ことかな・・・・。

 

 

その訓練をしないままに、大人になった人が、教師をしてたら・・・・。

 

 

生徒はどうなる?

 

 

 

 

 

生きる理由は、「自分で決める」。

 

相手が必要。

 

 

自分が生きる理由には、「相手が必要」。

 

 

 

 

自分で決める訓練をする。

 

それがなさすぎた。

 

 

 

学校教育もそう。

 

僕もそう。

 

 

 

 

 

 

 

「夢中」をつかんだ人は、救われる。

 

 

「夢中」をつかもう。

 

 

 

 

 

自分で決めて、いろいろやって。

 

 

それしか、経験は増えないし、経験しか学びはない。

 

 

目先に、成功も失敗もない。

 

 

相手からいろいろ言われる。

反応が返ってくる。

それしか、経験を得る方法はない。

 

 

だから。

 

 

 

「動かない理由はない」

 

「動かない理由はない」

 

 

 

 

そして、親のいうことを無視して、自分の価値を認めて。

 

 

 

もし、中学生くらいの自分に言えるなら、そんなことを言いたい。

 

 

 

 

私が教師を辞めた理由

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↑ 2年前に描いた4コマ。

初めてCDというものに触れたとき。

確かに感動だったなぁ。

もう、『何か新しいものを買って』感動するなんていうことは、きっとないと思う。

カセットテープとはちがって、「ずっと変わらないクリアな音を何度でも聞ける」ということ。

これは本当に感激だった。

CDを買うということが、一大イベントだった。

CDを買うというが「その曲そのものを手に入れる」という感覚だった。

本当に好きだった、CD。

 

 

この2日くらい、かなり気持ちがおち、まじで何もしない日もあった。

一日中、一人のアパートでYouTubeをながめ続けるっていう生き地獄。

絵も描けない。

そういう日もあるってこと。

 

 

図書館に行って、バックパッカーの本を7冊借りて読んだ。

なんかよくわかった。

気がする。

もういつでも行けそう。

と思った。

 

考えてみれば、コロナで海外渡航できそうにないって気づいた。

コロナ終わったら行こう。

 

 

ということで、チャリで国内を行ってみようと思う。

ぼろぼろになったチャリを整備に出す。

 

整備にかかる時間は、一週間程度。

ほんと俺って、行動が遅い。

 

迷ってばかり。

戸惑ってばかり。

 

ずっとそうだった。

 

でも、動こう。

どんなに遅くても。

動いていこうと思います。

 

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ぼくが教員を辞めた理由は。

 

 

ひとことで言えば、教師の仕事が、生徒のためになっていないと思ったからです。

 

 

以下、私の文章力のなさが原因で、なにか批判的な表現があるかもしれない。

でも、決してなにかを批判するつもりなんてないし、そもそも批判できる立場じゃない。

あくまで、思っていることをできるだけストレートに表現しようとしているだけです。

私の文章力がないだけです。 

 

 

 

 

 

①よくある『しつこく追いかけてくれた先生のおかげ』美談。あれ本当にそうか??

 

 

「中学のときの担任の先生が、課題をやらない私を部活の場所にまで追いかけてきました。

ずっとマジでうざいって思ってましたけど。

今は、先生のおかげで落ちこぼれずに済んだって思ってます。

○○になる夢をあきらめずに済みました。

本当に感謝しています。」

 

とかっていうの、違和感があります。

 

 

そもそも○○になるっていうの、ほんとうに夢だったの?

 

ほんとうにそれになるのが夢で、そのために課題をやる必要があるっていうこと、わかってたのなら、課題はちゃんとやっていたんじゃないの?

 

課題をやっていなかったってことは、それほど○○になりたいって思ってなかったんじゃない?

 

あるいは、「○○になるっていう夢」って、なんとなく周りから見てウケが良さそうだからっていう意識があるんじゃない?

 

あるいは、○○になるためにその課題をする必要があるっていう認識を持てていない、目標管理意識の低さが問題だと思うけど。

 

あるいは、これから先もその先生みたいな誰かがいないとダメってことかい、とか思ってしまう。

つまりその時点では、何も解決してなくない?

なんなら、課題出さずに、成績おちまくって、いろいろおちまくって、○○の道も閉ざされて、自堕落に生きて・・・・なにか気づく、方がよっぽど有益じゃない?

 

 

 

追いかける方の先生は、なぜ追いかけるのだろう?

 

確かに、その時点でその子が勉強するようになったとして。

 

その先、その子はそういう外的圧力がなくなった場合、勉強できるのかな。

 

ある学齢においては、外的圧力というか動機付けというか、あってもいいとは思う。

しかし、それは美談といえるだろうか。

 

 

失敗する機会、気づく機会を奪っているんじゃないだろうか。

 

追いかける先生は「俺が担当している生徒だからよくする」って目先のことだけを考えていないだろうか。

 

余計なお世話をしてないだろうか。

 

そもそも課題ってなに?

 

どういう理由で、与えられたの?

 

なにのためにやるの?

 

ほんとうにスキルアップに必要なの?

 

ただの資格取得?

 

忖度?

 

やる必要あるの?

 

ほんとうに○○のためにやる必要あるの?

 

やる目的がはっきりしていないのにやるって、危険じゃないの?

 

 

 

目的や意義や意図を考えさせず、やらせる。

 

これは危険だと思う。

 

 

そういうことの積み重ねが、考えない生徒をつくると思う。

 

やるなら、なぜやるのか。

 

それを自分で設定させる。

 

それが重要なんじゃないの?

 

 

そういうことをさせずに、美談になんてなるのだろうか。

 

それがなければ、自分で考える人にはならないと思う。

 

もう、そういうのは嫌でした。

 

 

 

 

 

 

②ボランティアは全員やる!!

 

 

大学受験も、ぼくら(40代)のときとは、かなり様がわりしています。

 

ひとことでいうなら。

 

 

「いかに勉強しないで、できるだけいい大学に行けるか競争」

 

 

そう感じます。

 

もちろん一生懸命に勉強して、一般受験に臨む子もいます。

 

しかし、今や半分以上が推薦入試です。

 

10月11月には、ほとんどの子の進学先が決まっています。

 

ほとんどの子がです。

 

僕の勤務校だった学校では、特進でない普通クラスであれば12月には8〜9割の生徒が、受験を終えています。

 

特進クラスでも半数は終えていたかな。

 

 僕と同世代の人からすると、結構おどろきませんか?

 

一体どんな試験なのか。

 

 

・書類選考

・小論文

・面接

・プレゼンテーション

・集団討論

 

 

・・・・筆記試験は?

 

 

もちろんあります。

でも、ない場合もあります。

 

あっても最重要視されるわけではないし、科目数も1とか2とか。

 

これで、受験生の一体なにが測れるのだろう。

 

 

書類選考のためにボランティアは全員強制。

もはや矛盾しまくりのことば。

 

志望理由書は、担任の度重なる修正によって、もはや誰の志望理由なのかわからないほどに。

 

プレゼンテーションや面接では、いかに「1のことを10にして言うか」を指導しているよう。

 

さらに昨今は、進学先の決定と職業の選択が、いっそう密接につながっている。

 

だって、そうしないと志望理由が書けないから。

 

 

 

 

18歳程度で、ほんとうにその仕事につきたいってわかるの?

 

 

 

 

ほんとうに薬剤師になるのが「夢」なの?

ほんとうに看護師になるのが「夢」なの?

ほんとうに建築師になるのが「夢」なの?

ほんとうに教師になるのが「夢」なの?

ほんとうに管理栄養士になるのが「夢」なの?

 

 

ちなみに、職業差別をしたいわけじゃ、もちろんないです。

 

 

ただ、教師ぐるみで「夢」といわせることに疑問があるんです。

 

 

もちろん教師のみなさんを批判したいわけでもありません。

僕は、かつての勤務校において、多くの同僚の教師を尊敬していました。

 

 

 僕が「もうできない」と思ったのは。

 

 

 

 

「資格が取れれば安心だ。」

 

 

というだけの理由に対して。

 

 

「幼いころ○○したことがきっかけとなり、○○に興味をもつようになりました。

さらに中学生になって授業中に先生がしてくれた〇〇の話を聞いて、〇〇になることを決めました。

将来は、〇〇のような〇〇になって、世の中の〇〇な〇〇の人たちに役立てるように、〇〇な〇〇になりたいです。」

 

 

 というような文章を作り出すことに耐えられなくなったからです。

 

生徒と一緒に、時間をかけて相談しながら、そんな文章をこしらえるのは、耐えられない。

 

 

しかも生徒は意外にも、『そうして志望理由書をかいて、大学に行って資格をとり、その職業についていくことが、人生というものだ』と割と本気で思っている節があります。

 

それってほんとうに人生なのかな?

 

やがて僕のように行き詰まるんじゃないのかな?

 

試行錯誤がなさすぎないか?

 

養鶏場の鳥とどう違うのかな?

(↑いいすぎ?でもちょっと思う。)

 

 

 

人生ってそんなふうにベルトコンベヤーのようにいくだけものものだろうか。

 

やがてそのように生きた人たちが子供をもって、その子にも同じように教育する。

 

 

でも、断言できる。

 

 

人は、病気になるし、事故にあう。

思いもかけない困難な状況にあう。 

 

 

ベルトコンベアーに乗ったって「無事・安全」なんてないんだよ。

 

ベルトコンベアーに乗っていくのなんて、人生ではないと思う。

 

だって対応できるのか?

そうなったら。

 

きっとベルトコンベアーに依存したように、他のなにか依存できるものを探すだろうと思う。

 

 

僕も今さら気づいた気がするけど、人生はまず自立だと思った。

 

 

18歳から職業を夢としてとらえて、資格を得て仕事して年とって。

子どもにも同じことを教えて。

経済的には自立できるだろうが・・・・。

ベルトコンベアーからは外れることはできないんじゃない。

それは自立した人生なのかな。

僕のように、やがて行き詰まることはないかな?

 

 

 

言いかた変かもだけど・・・。

死なないように生きたって、必ず死ぬよな。

 

 

 

大袈裟かもしれないけど。

 

養鶏場の鳥に、自分から進んでなっているのではないか。

 

生徒に、進んでならせているのではないか。

 

 

 

 

 

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↑2年前に描いた4コマ。

思い出。

 

 

 

 

③正解・不正解の収束型学習

 

 

昨今は、ネット上にアドバイスが多すぎる!!!!!

 

 

「人生を変えるなら〇〇しろ!!」

「〇〇する奴、人生終了!!」

「〇〇の原因はこれ!!!」

 

 

 

なんか・・・・・。

 

 

 

 

 

もう、うるせーーーーーーーーーーーーー!!!!!!

 

 

 

 

 

って思うのは、僕だけじゃないはず。

 

 

なんかよ。

 

いろいろいわれすぎて動けなくなるよ。

 

 

 

正解を言うなよ!!!!

 

不正解が生まれるだろうが!!!!

 

 

 

 

正解を言うから!!!

 

やっちゃいけないこと(不正解)が、生まれるだろうが!!!!!

 

 

 

 

 

頼んでもいねーのに、アドバイスしやがって。

 

 

 

 

アドバイスがあるから!!!

その反対がタブーに感じちゃうだろう!!!!

 

 

もはや動けなくなるだろう!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

なーんちゃって。

 

 

 

 

 

もちろん、とても有益な情報もたくさんあって。

ほんとうに助かるし、いい時代だと思います。

 

 

 

でも、僕のように、フットワークの重い人間にとって。

 

 

「正解を言われすぎると、それ以外ができなくなる」というのは、ある程度の事実だと思う。

 

 

 

 

学校の学問は、「正解・不正解で行動を抑制している」ように思える。

 

少なくとも、そういう見方はできる。

 

 

未知のものを試行錯誤で切り開く「発散タイプ」ではなく、特定の答えを探し当てる「収束タイプ」の学問。

 

 

そういう性格のものであると、ちゃんと自覚しながら勉強した方がいいと思うし。

 

 

教える方も、そういう性格のものであると、ちゃんと自覚しながら教えた方がいいと思う。

 

 

少なくとも、そのことをわかっている教師は、ほとんどいないように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日、エガちゃんねるが復活した。

すごくうれしい。

僕もがんばろうと思います。

 

 

 

 

 

 

今日もほんとうにおつかれさまでした。

ありがとうございました。

 

だらだら、スミマセン。

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↑「物理的手法で問題解決するドラえもん

今日描き終わった4コマです。

漫画的な表現がむずかしいですね。

トーンをどこに使おうかとか、どの影を斜線で表現しようかとか。

選択肢が無限なんですね。

もっと早く描けるようになって。

絵を描く事が武器になれれば、と思っています。

絵、漫画の仕事を募集中です。

気軽にご連絡ください。

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 せっかくの無職なのに、やっていることはこんな絵を描いているだけっていう。

 

ずっと悶々としています。

 

かなりもったいなく思って焦ってしまいます。

 

 

 

もう、自分の現状は受け入れることができつつあると思っています。

 

そういう意味での焦りは、もうなくなったと思います。

 

つまり、もう「今までの生き方を悔やむのは終わった」って感じでしょうか。

 

ようやく受け入れた気がします。

 

 

 

43歳の無職です。

マジで何者でもない。

 

 

 

もう、ここからやるしかないですね。

 

 

 

子どものときって、大抵、自分自身を特別な何かと思いますよね。

 

ぼくもずっとそう思っていました。

 

割と最近まで、思っていた気がします。

 

 

 

理屈ではね、中年になって、何者にもなれなかったなぁ、なんて考えてましたけど。

 

こうして、教職も離れて、本当になにもない無力な状態になると。

 

最初は「ネット様」たちとの比較に苦しみました。

ちなみに「ネット様」とは、ネット上にその存在を確認できる、すごい人たちの事です。

 

そんな人たちとの比較に苦しむっていうことは、「自分も何者かのはずだ!!」って考えているっていうことでしょう?

 

最近は、そのへんの焦りがようやく落ち着いてきた気がします。

 

 

 

「こんな生き方してたらそりゃこうなるよな」って納得できたからだと思います。

 

 

 

いやマジで、ゼロからのスタートですね。

つらー。 

 

 

 

 

 

旅に出るの怖いです。

 

でも、アパートで一人でこんな毎日過ごしてても・・・・。

 

ちょっとずつでもいいから、準備しよう。

 

本を買いました。 

 ひとまず読んでみようw。

 

こんなのこえーよ。

 

 

 

でも、できることからやろう。

 

 

 

キャストパワーも、なんかどうなったのかよくわかんないし。

2年前かな、一度CMの撮影でエキストラやったけど。

早朝から夜まで拘束で、交通費のみでした。

いやー、ああいうのをやる気力は正直もうないです。

 

 

でも、オーディション情報はチェックしておこう。

 

 

 

 

今、海外に行くのは大丈夫なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

今日も一日、本当におつかれさまでした。

ありがとうございました。

 

 

保護者への本音

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↑ 2年前に描いた4コマ。

 

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学校の教員をやっていて、多くの保護者を見てきました。

 

当時、直接的には言えなかった本音を、ここに書くとすれば。

 

 

 

 

 

・勉強する子どもに育てたいなら、親が勉強しろ

 

・細かいこと気にしても大差ない。所詮はあなた程度の人間の子ども。

 

・子どもから逃げるな。対決すべき時は断固として対決しろ。

 

・子どもが思い通りになるはずない。自分を高めることだけ考えろ。

 

・あなたの価値観は絶対じゃない。

 

・他人の悪口を言うな。子どももいうようになる。いずれ親の悪口を言うようになる。

 

・幼児のときに、子どもの前でスマホを手放さないなら、子どもは勉強できなくなると覚悟 しろ。

 

・子どもと会話しろ。

 

・でも、結果を期待するな。所詮はあなた程度の人間の子ども。

 

・子どものことの前に、自分の人生を幸せにしろ。子どもは自分でなんとかする。

 

・子どもの失敗する権利を奪うな。信頼できない自分の勇気のなさを恥じろ。

 

・子どもに対して、不機嫌な感情をあらわにするのは、マインドコントロールである。親である自分のコミュニケーション能力が低いことを自覚しろ。

 

 

 

 

 

 

要は『子どもではなく、自分自身をなんとかしろ』っていうことだと思う。

これは本当にそう思います。

 

違う言い方をすれば、『子どもの問題はほぼ親が原因』。

まず間違いないと思う。

 

 

 

 

 

 

上記のほとんどは、教師としてぼく自身が気をつけてたことです。

 

もちろん完璧にはできません。

 

でも、知ってるか知らないかの違いは大きいと思います。

 

 

ぼくは一時期、生徒との関係で、谷底に突き落とされた経験があります。

 

そのときに、『なんとかしなきゃいけないのは生徒じゃなく、自分自身だった!!』と、心底気づきました。

 

それ以降、保護者を見ていると、以前のぼくのように、『生徒を変えようとする』親の存在に気づくようになりました。

 

『子どもではなく、自分自身をなんとかしろ』

 

これは真実だと思っています。

 

でも、こんなこと直接言えないよね。

 

それこそ保護者を変えることだってできない。

 

いつだって、問題は自分自身にあるのです。

(別に自分を責めろというわけではない。ただの事実として。)

 

 

 

ぼくは「親ガチャはずれ」です。

 

その影響をずーっと受けてしまった。

 

ようやく自覚して、自立に向かっています。

 

 

学校にいて、保護者を見ていると、同じように「親ガチャはずれ」のアンラッキーな生徒が沢山いると気づきます。

 

 

 

教師と生徒の関係も同じだと思います。

 

 

「子どもの問題の原因は、ほぼ大人」。